直ぐな人は、御顔を仰ぎ見る。(詩篇11:7)
「主に私は身を避ける」という告白から始まるこの詩篇は、サウルに命を狙われたときの心境を歌ったものだとも言われる。まことの神を信じている者にも、危険は襲いかかるが、神がまことの避難所となってくださる。悪者は「 心の直ぐな人を射ぬこうとし」、正しい者を「拠り所がこわされたら……何ができよう」(3)と不安に陥れようとする。「拠り所」は、私たちの実生活に必要な事々ということか。しかし、ダビデは、「主は、その聖座が宮にあり、主は、その王座が天にある」(4)と、誰もその座を揺るがすことができないところに神はいらっしゃることを語る。「主は、悪者の上に網を張る」(6)と、神は人の企てとはまったく違う次元から働かれ、悪者に「火と硫黄」というさばきを宣告する。神は、「暴虐を好む者を憎」(5)み、「正しく、正義を愛される」(7)方。しかし、自分の心の中を見るときに、そこに暴虐が渦巻いていることを認めずにはいられない。ただイエス・キリストの十字架のあがないにすがるほかはない。神の前に自分が何者であるかを知り、神の前に崩折れる者を、神は「正しい者」とみなしてくださる。ダビデが自らの大きな罪を悔いた時の、「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」ということばはなんという慰めだろうか。この神に身を避け、御顔を見上げて歩む一年としていきたい。