私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。
(コリント人への手紙第二4:7)
パウロはこの箇所で自分自身を「土の器」にたとえている。創世のはじめ、神は造られたものをご覧になり、「非常に良かった」と仰せられた。人間は土地のちりから造られた。、神のかたちに似せて作られたが、アダムとエバが罪を犯した結果、そのかたちが損なわれてしまった。史上最大の伝道者といわれているパウロも自らを「私は、ほんとうにみじめな人間」とも「罪人のかしら」であるとも告白している。彼は、きよい神の前に、自分はどうしようもなく汚れた、惨めなだと自覚していたのだ。しかし、同時に彼は、自分自身の中に宝を持っているという。それはイエス・キリストであり、イエス・キリストにあるいのちのこと。いかに自分は無力でも、そこに計り知れない神の力が働くのだという。だから、四方八方から苦しめられても、窮することはない。途方にくれても、行きづまることはない。迫害されても、見捨てられることはない。倒されても、滅びないと聖書は語る(4:8,9)。死の力をも打ち破ってよみがえられたイエス・キリストの力が私たちのうちに働かれ、「イエスのいのちが私たちの身において明らかに示される」(4:10)。「わたしは、すでに、世に勝った」(ヨハネ16:33)と言われるイエスが宝となってくださるとき、みじめな人生にも逆転が始まる。私たちはこの宝を持って、歩んでいくことができる。