議会で席に着いていた人々はみな、ステパノに目を注いだ。すると彼の顔は御使いの顔のように見えた。(使徒の働き6:15)
教会の執事として選ばれたステパノは、「恵みと力とに満ち、人々の間で、すばらしい不思議なわざとしるしを行っていた」(8)。しかし、ここで事件が起きる。リベルテンの会堂に属すユダヤ教の一派が、ステパノと議論を吹っかける。だが、ステパノは「知恵と御霊によって語っていたので、それに対抗することができなかった 」(10)という。イエス・キリストも、私たちが弁明するときに、「何を話そうかと心配するには及びません。……話すのはあなたがたではなく……がたの父の御霊だから」(マタイ10:19 ,20)と励ましてくださっている。
彼らはそれでも引き下がらず、民衆と長老たちと律法学者たちを扇動し、彼を襲って捕らえ、議会にひっぱって行き、偽証までしてステパノを徹底的に非難する。罵詈雑言が浴びせられステパノだが、何と「彼の顔は御使いの顔のように見えた。」(15)のだという。
執事の選出の条件は、「御霊と知恵とに満ちた」「信仰と聖霊とに満ちた」とあるように、ステパノは御霊に満ちていたからこそ、恵みと力とに満ち、不思議なわざをおこない、人間の議論に負けず、きよさと威厳に満ちた表情でいられたのではないか。私たちのうちに宿っておられる神に自分をすべて明け渡した姿といえる。主は私たちを通して働かれる。