わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」(ヨハネ6:51)
ユダヤ人たちは、「わたしは天から下って来たパンである」というイエスのことばが理解できず、ヨセフとマリヤの間に生まれたはずのにと、ひそひそ話をする。人間の理性や知識で神を理解しようとすることはできない。またそのように神を理解しようとすることは冒涜であるといえる。頑なな心では、たとえ何を見ようと、何を聞こうと、人は神を知ることはできない。イエスは、「父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。」(45)と、聖書を学んでいながら、聖書が指し示しているキリストを信じない、彼らの心の頑なさを叱責する。そして、イエス自身がいのちのパンであることを明言する。そのパンは、モーセが荒野で与えたその日一日の生命を生かすマナよりもすぐれた、人のいのちそのもの、神の前に人の存在そのものを生かすものである。マナは「何だこれは!?」という意味の言葉が、そのままその食物の名前になったというが、キリストという天からのパンは、まさしく「何だこれは!?」という、この世のものでは味わえない、知ることができない、まことの神につながっていることの素晴らしさをもたらす。このいのちを何としても得てほしい、という神の強い願いによって、その身を割かれるためにイエスは神の座を降りてこの世に来てくださった。そしてこの割かれたパンを食べよと、そのいのちを私たちに差し出してくださった。この神の思いを感謝し、受け取り、歩んでいこう。