こういうわけで、私たちを、キリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えなさい。(Iコリント4:1)
パウロは、自分を含めた教会の指導者たちのことを、「キリストのしもべ」「神の奥義の管理者」と考えるようにとコリント教会に教える。決して分裂、分派を生み出すリーダーなのではなく、キリストのしもべであり、キリストのわざに仕えている者、さらに「神の奥義の管理者」であることを語る。奥義、というのは、隠されている真理であり、ここでは人間の知識・知恵では全く想像もつかない神の知恵による救いのみわざ。「十字架のことばは、滅びに至る人々には、愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力」(Ⅰコリント1:18)とあるように、福音を管理するしもべとして召されていることを語る。
そして、さばき主なる神を差し置いて先走ったさばきをすることや、聖書に記されている以外の「律法」を作り、他人を批判する材料にしてしまう人間の危険性について警告している。それらは人間の高慢さから来る。
主を信じる私たち皆、神の奥義の管理者として、奥義である十字架の言葉、福音を神から託されている。自らがこの福音に生き、福音を携えていく者でありたい。