「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)(マタイの福音書1:23)
ヨセフは、自分の見に覚えのないことで、妻と決まっていたマリヤの妊娠を知り、激しく動揺する。普通に考えれば、マリヤの不貞行為によるものであり、ヨセフは、このことを公にして彼女を糾弾するか、離婚状を提出して離縁することができた。考えた末ヨセフは、 彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。「正しい人であって」(19)ということばに、神の前に忠実に歩んでいた人柄が伺える。
そのような中で、彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて、「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです」と語る。「ダビデの子ヨセフ」ということばで、ヨセフがダビデの子孫であること、イスラエルの民を救うメシヤは、ダビデの家系から生まれるという預言を思い起こすことを促している。「その胎に宿っているものは聖霊による」ということは、まったく人間の理解を越えた出来事。神は人間の知恵や人間の正しさを越えたみわざをなさるお方である。神の権威によって、神の霊によってなされることの前には、人間はただ沈黙するしかない。
そして、このことはイザヤ書の預言の成就であるとマタイは記している。「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」(イザヤ7:14 )この、神がともにいることがしるしなのだと、神は語る。モーセに召命を与えた際も、「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。」(出3:12)と、神はモーセに語られた。神が人間に与えたしるしは、神が私たちとともにいる、インマヌエル、なのだ。
そして、このインマヌエルなる神が人間としてこの世に人に見えるような姿で来られたのが、クリスマス。まさに驚くべき出来事出来事。この神への畏れと感謝と喜びを表していこう。