私がキリストに倣う者であるように、あなたがたも私に倣う者でありなさい。(Ⅰコリント11:1)
一見傲慢だとも捉えられてしまいがちなパウロのことばだが、しかし彼は、自身のことをこう告白している。「私は罪人のかしらです」(Ⅰテモテ1:15)。「私はほんとうにみじめな人間です」(ローマ7:24)。
自分自身を自らの力で制御できないという、無力感、絶望感に苛まれていたパウロ。そんな彼が、どうして自分を見習うように、と言うことができたのか。それはコリント教会の人々が」「キリストに倣っている」というその姿勢・生き方において自分を見習ってほしいという願いをもって語られたのではないか。
「自分の利益を求めず、ほかの人の利益を求め」(Ⅰコリント10:24)、「人が自分の友のためにいのちを捨てる」(ヨハネ15:13)……その姿はキリストのうちに見られるもの。だからパウロも「すべて神の栄光を現すために」自分の意見や立場に固執することよりも相手をつまずかせない道を選んでいくと語る。
キリストに倣うときに、私たちは、「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて」(Ⅱコリント3:18)いく。神の栄光を現す者となるように、神のみわざがこの身にあらわされることを期待していこう。