幸いなことよ悪しき者のはかりごとに歩まず罪人の道に立たず嘲る者の座に着かない人。
(詩篇 1篇 1節)
詩篇22篇の中の多くのことばははキリストの十字架の贖いのみわざを預言することとなった。ダビデは、取り囲む敵からあざけられる。「主に身を任せよ。助け出してもらえばよい。主に救い出してもらえ。彼のお気に入りなのだから」(8)。十字架上のキリストもこのことばであざけられののしられた。十字架から降りて見せれば信じよう、という言葉にも動じずに、ただ神が計画なさった人類救済のために自らを犠牲にする。
ダビデは詩篇1篇で、あざけるものの座に着かずに主の教えを喜びとする者の幸いを歌っている。ペテロは、「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された」(Ⅰペテロ 2:21)と語る。神に従う者が迫害されるのはある意味、当然なことと言える。しかしどんなにさげすまれようとも、私たちには誇るものがある。「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力」(Ⅰコリント 1:18)なのだ。