神は、ノアと、箱舟の中に彼といっしょにいたすべての獣や、すべての家畜とを心に留めておられた。それで、神が地の上に風を吹き過ぎさせると、水は引き始めた。(創世記8:1)
神は、箱舟の中にいるノアばかりか、すべての獣や家畜に心を留めておられた。「空の鳥を見なさい」(マタイ6:26)「野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい」(マタイ6:28)とあるように、鳥を養い、花をも装ってくださる神は、もっとすぐれた人間をことのほか愛し、見守っていてくださる。
1年間の中で生活することを余儀なくされたノアたちだが、その間、神はノアを洪水の危険からかくまっていてくださっていた。私たちがどこにも進めないような時、どこかに閉じ込められているように思う時、それは神が私たちを見捨てているからだと思う必要はない。私たちが危険に遭わないように、あるいは私たちの傷が完全にいやされるまで、神が盾となって隠れ場となって、かくまっていてくださる時なのかもしれない。神はいつでも私たちを心に留めていてくださる。
そして、「神が地の上に風を吹き過ぎさせると、水は引き始めた」。あの出エジプトのときも、後ろからはエジプトの軍隊、行く手は海に阻まれて絶体絶命と思われた時、「モーセが手を海の上に差し伸ばすと、主は一晩中強い東風で海を退かせ、海を陸地とされた。それで水は分かれた」(出エジプト14:21)。それでイスラエルの民はその乾いた道を進みゆくことができた。神はその力をもって、私たちの周りを取り囲む困難、私たちの前に立ちはだかる苦難を取り除くことができるお方。
まさに「試練とともに脱出の道も備えてくださ」るお方なのだ(1コリント10:13)。
大地が乾いたかどうかを確かめるために放った鳩がオリーブの若枝をくわえて戻ってきたのを見て、ノアは再び大地にいのちが芽吹いたことを知り、心が震えたことだろう。
常に私たちを心に留めておられる神は真実なお方。ここに私たちの希望がある。