この救いは、私たちの敵からの、私たちを憎むすべての者の手からの救いである。
(ルカの福音書 1章 71節)
(ルカ1:67-80より)
不妊の女と呼ばれ年老いた妻エリサベツとの間に男の子が生まれることを天使から告げられたザカリヤは、にわかにはそれを信じられずに、その時が来るまで口がきけない者とされてしまう。やがてその子が誕生したとき、筆談で「ヨハネ」と命名を伝えると、再び口がきけるようになった彼は、預言の言葉を語る。「暗闇と死の陰に住んでいた者たちを照らし、私たちの足を平和の道に導く」と、キリストこそがまことの光であり、ヨハネはキリストを指し示すものとして用いられることが語られる。聖霊によって満たされて語られた言葉は、わが子の喜び以上に、民に救いが与えられることを喜ぶものとなった。
私たちも、聖霊によって、ヨハネが指し示したキリストの救いのうちを歩み、キリストを指し示すものとして用いられたい。
力ある方が、私に大きなことをしてくださったからです。
(ルカの福音書1:49)
天使から受胎告知を受けて、恐れ戸惑うマリアは、同じように神様の特別な取り扱いを受けて胎に子を宿しているエリサベツの預言の言葉によって励まされ、口から出た賛美の言葉が「マリアの讃歌」と呼ばれている。
「卑しいはしために目を留めてくださった」と、神の目はどんな人にも注がれていることが語られ、「主のあわれみは、代々にわたって主を恐れる者に及びます」とあるように、主を信じる現代の私たちにも、神は恵みとあわれみを注いでくださる。そして、「低い者を高く引き上げられました」と、キリストの福音は、人生に逆転をもたらすものであることが語られている。
救い主キリストという神からのプレゼントには、神のひとり子のいのちというこれ以上ない代価が払われている。神の愛の大きさに感謝しつつ、クリスマスの時を過ごしたい。
マリアは言った。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」
(ルカの福音書 1章38節)
乙女マリアに天使が現れ、彼女に男の子が生まれることを告げ、名を「主は救い」という意味の「イエス」と付けよと命じた。乙女が身ごもり、子を生むという、それは聖霊によってなされる奇跡であった。
すべての人を罪から救うキリストを胎に宿すということに恐れ戸惑うなか、マリアは「どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」と祈る。
クリスマスは、2千年前にイエスラエルに生まれた一人の赤ちゃんの誕生を祝うものではなくて、今生きている自分に神が触れてくださり、神がみわざをなしてくださること、みことばが自分のうちに“受肉"することを、敬虔に受け止めていくこと。
神の栄光のために、この身を主に差し出していく、そのことを思いながら待降節を過ごしたい。
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
(ヨハネの福音書 1章 14節)
(ルカの福音書1章より)
天使が告げたとおりに、祭司ザカリヤの妻エリサベツは身ごもり、男の子を出産する。集まってきた近所の人々は、その子に「ヨハネ」と命名するというエリサベツの言葉に、父親の名前にちなんで名付けることが慣わしであるのにそんなはずはないと、父親のザカリヤに再び尋ねると、口がきけなかった彼は、筆談で「ヨハネ」と伝える。その途端、彼は再び口がきけるようになり、神をほめたたえた。
神に取り扱われたこの夫婦は、人の常識よりも、神のことばを優先させたのである。神が恵みとまことによって人に関わってくださり言葉通りをなしてくださるのだから、神を信じる者も神の言葉通りを行い答えていく、この存在をもって神の栄光を表していく。それが本来の人間の喜びであり、幸福なのである。
主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。
(ルカの福音書1:45)
祭司ザカリヤは、不妊の女と呼ばれ年老いた妻・エリサベツに男の子が生まれることを天使から聞かされる。にわかにはそれを信じることができずにいると、その日が来るまで口がきけない者とされてしまう。果たしてその言葉通り、エリサベツは妊娠する。半年後、天使から受胎告知を受けた親類のマリアが訪ねて来たとき、キリストにまみえる時を喜び踊るように、エリサベツのお腹の赤ちゃんが激しく動いた。そしてエリサベツは聖霊に満たされて預言の言葉を語る。それは不安と恐れの中にあるマリアを励まし祝福するものとなる。
まことであり全能である主の言葉は必ず成る。主のことばを信じる者は幸いであると聖書は語る。みことばを信じる喜びを幸せを取り逃がすことのないようにしたい。
何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。
(ヨハネの手紙第一 5章 14節)
(ルカの福音書 1:5-17)
二千年前のキリストの誕生に先立ち、神がこの世に準備されたのが、バプテスマのヨハネの誕生であった。両親の祭司ザカリヤとエリサベツは子どもを望みながらかなわないまま歳をとっていた。しかしザカリヤが神殿で奉仕をしているところに天使が現れて男の子が誕生することを告げ、名前を「ヨハネ」とすることを命じる。このヨハネの誕生は、両親の待望の出来事であるとともに、人類が待望する救い主誕生の前触れとなる。
神は私たちの願いを知っておられ、叫びの声を聞いてくださるお方。しかし決して私たちの願うようにではなく、神の最善が、神の時に、神によってなされる。主の驚くべき恵みのみわざを思い巡らしながら、アドベントを迎えたい。
「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」と万軍の主は言われる。(ゼカリヤ書 4章 6節)
パウロがローマの市民権を持っていることを知った長官たちは、不法にパウロとシラスを捕らえてむち打ち、投獄したことを咎められることを恐れ、二人をなだめるために出向いていく。それはローマの権威を恐れての行為だったが、人間がまことに恐れるべきは、神の権威である。牢獄の扉が開き鎖が解けたときに、そこから逃げ出さなかったのも、捕らえられる前にローマ市民であることを明かさなかったのも、様々な理由が考えられるが、一つ言えるのは、神の権威に自分を委ねていたということ。そして晴れて釈放された二人は、兄弟たちのもとに行き、「忍耐と励ましの神」(ローマ15:5)にあって、皆を励ましたのであった。この神の権威のまえにひれ伏し、この神の霊によって歩み、神の慰め、励ましを届ける者として歩んでいこう。
主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。
(使徒の働き16:31)
(使徒の働き16章)
牢獄に閉じ込められていたパウロとシラスが真夜中に賛美の歌を歌っていると、大きな地震が起こり、たちまち扉が全部開いて、すべての囚人の鎖が外れてしまった。二人の背後に働くまことの神の御力を知った看守はパウロたちの前にひれ伏し「救われるためには、何をしなければなりませんか」と訪ねる。二人の答えは、「主イエスを信じなさい。」まことの救いは行いや悟りによるものでなく、救い主キリストを信じることである。そして二人は「あなたもあなたの家族も救われます」と続けた。神の救いは一人にとどまることなく、その信仰の光が、その周りを照らすこととなる。世の光として輝いていこう。
私はあらゆるときに主をほめたたえる。私の口にはいつも主への賛美がある。(詩篇 34篇 1節)
(使徒の働き16章より)
不当に捕らえられ鞭打たれて牢獄に閉じ込められたパウロとシラス。ひどい苦痛の中でも二人は真夜中に賛美の歌を歌う。するとほかの囚人たちもそれに聞き入ってしまう。二人の歌声が他の囚人たちへの証しとなっていく。すると大地が揺れたちまち扉が全部開いてすべての囚人の鎖が外れる。それは主のみわざによることだった。
人生の暗闇の中、苦痛の中で主を賛美するときにこそ神を賛美していく、そこで私たちは主の臨在に触れることができる。賛美の中に住まわれる主に出会うとき、主がまことの光であり、癒やし主であり、私たちを自由にしてくださるお方であることを知ることができるのだ。
そして主は私たちを敵から解き放たれた。主の恵みはとこしえまで。
(詩篇 136篇 24)
(使徒の働き16章より)
第二次宣教旅行においてパウロとシラスの一行がピリピに滞在していたときでのこと、祈り場に行く途上で女占い師に出会う。彼女は占いの霊に憑かれた女奴隷で、占いの売上を主人たちに渡していた。彼女についていた悪霊はすぐにパウロたちにまことの神の霊が宿っていることを見抜き、宣教活動の妨害を始める。何日もつきまとう彼女にパウロは業を煮やしてイエス様の御名によって悪霊を叱るとたちまち悪霊は彼女から離れ去ってしまう。すると彼女の主人たちは占いの収益がなくなったことで怒り、パウロとシラスを捕らえて、二人は牢屋に入れられてしまう。
神を否定し、金に縛られ、悪霊に縛られている姿は、罪に縛られている人間の姿を象徴している。しかしキリストは私たちを開放するためにこの世に来られ、罪を贖ってくださった。キリストを信じて私たちは開放され、キリストの御名によって私たちは自由にされるのだ。主にあって、解き放たれた人生を歩もう。
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」(ヨハネの福音書 7章 37〜38節)
(創世記21 章より)
遊牧民であり寄留者であるアブラハムにその土地の王アビメレクが盟約を結ぶことを願い、訪ねてくる。前回のサラの件で、まことの神からのお告げを受け、またその家の胎が閉じられていたところをアブラハムのとりなしの祈りによって癒やされた経験によって、アビメレクはアブラハムの背後におられるまことの神を畏れる心をもっていたのであろう。
アブラハムは、アビメレクのしもべたちが井戸を奪ったことの謝罪を受け入れ、7頭の雌羊を与えることによって井戸を取り戻し、契約を結ぶ。それがベエル・シェバ(井戸の誓い〈7つ〉)の由来となった。
神の前に罪を犯しそれを償うことはできない人間のために、まことの神であるキリストがこの世に来られ、そのいのちをもって贖い、人間にまことの井戸、いのちの水をお与えになった。私たちは、今、キリストを信じて、後の世の新しいからだのための永遠のいのちを得なければならない。
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」(ヨハネの福音書 7章 37〜38節)
(創世記21 章より)
女奴隷ハガルとその子イシュマエルを家から追い出してほしいという妻サラの強い要求によって、アブラハムは仕方なくハガルにパンと水を持たせて二人を送り出した。荒野をさまよう二人は、まもなく食料も水も尽き、死を待つばかりとなる。息子の死を直視できないとハガルは遠くに座って泣いていると、主の使いが現れてハガルに励ましの言葉をかける。ハガルは目が開かれて井戸があることがわかり、イシュマエルに与えた。このことによって、神の預言どおり、イシュマエルはやがて大いなる国民となっていくのである。
神は私たちに目を留め、私たちの嘆きの声を聞かれ、いのちのみことばを語り、霊の目を開かせてくださる。神の哀れみがなくては、私たちは信仰を持ち得ない。ハガルはそこで一人の息子に水を与えたことで彼は命拾いし、彼の子孫が大いなる国民となっていく。
私たち人間は、この世での尽きるからだのため以上に、後の世での新しいからだのためのいのちを備えていおく必要がある。いのちの水を一人に与えるならば、それがやがて多くの人の祝福となっていくであろう。
勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。
(ヨハネの黙示録 21章 7節)
(創世記21章より)
ようやく初子イサクを授かったサラだが。女奴隷ハガルの子イシュマエルがイサクをからかっているのを見て怒り、彼女を追い出すように夫アブラハムに訴える。イシュマエルも我が子であることから思い悩むアブラハムだったが、イサクもイシュマエルも祝福するという神の語りかけにより、妻の言うことを受け入れる。自らの不信仰や人間的な良さから家庭内のいざこざを招いたアブラハムだったが、神はどこまでもアブラハムとその子孫を憐れまれたのだ。
この出来事は、神の民であるユダヤ人がキリストを殺すまでに不信仰に陥ったが、異邦人が祝福されることによって神はユダヤ人に妬みを引き起こし、結果的にすべての民を救うという人類救済のご計画の縮図と見ることもできる。「アブラハムは非常に苦しんだ。それが自分の子にかかわることだったからである」(創世記21:11)とあるが、アブラハム以上に、神はすべての人を我が子のように思い、苦しまれた。そしてキリストはご自身のいのちを捨ててくださった。ここに真実の神の愛がある。キリストを信じる者を、神は、アブラハムの信仰を受け継ぐ者として、祝福してくださるのだ。
今飢えている人たちは幸いです。あなたがたは満ち足りるようになるからです。今泣いている人たちは幸いです。あなたがたは笑うようになるからです。(ルカの福音書 6章 21節)
(創世記21章1-8節より)
年老いたアブラハムとサラの間に生まれた待望の赤ちゃんは、「笑う」という意味の「イサク」と名付けられた。かつて、二人の間に子どもが生まれるという神様の言葉を聞いて、「そんなことがあろうかと」アブラハムもサラもその言葉を信じずに笑ってしまった。しかし、神様の約束が違うはずがなく、そのことば通り、男の子が生まれた。かつての不信仰によるせせら笑いを本当の喜びの笑いへと変えてくださった神の真実を覚えて名付けたのであった。
キリストの「あなたがたの悲しみは喜びに変わります」(ヨハネの福音書 16章 20節)ということばは、ただの慰めではなく、人類の罪を贖うために自らいのちを捨てたみわざに裏打ちされている。死からいのちへよみがえったキリストは、悲しみを笑いへと変えてくださる。
私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。
(コリント人への手紙第二 4章 7節)
(コリント人への手紙第一 15章より)
派閥争いで混乱していたコリント教会に対して、パウロは、教会はキリストのからだを形成する各器官として、それぞれが違うものとして神に造られたことを強調する。そしてその器官が互いに連携してからだは健全に成長していく。それぞれの違いは、対立のためではなくて、愛し合うためのものであるのだと、「愛を追い求めなさい」(コリント人への手紙第一 14章 1節)と力説している。
そして、「血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。」(15:44)と、この世での私たちのからだは、やがて後に来る世での新しい~が与えられるための準備期間であると説く。
神によって土で造られいのちを与えられた人類は、罪を犯して永遠のいのちを放棄してしまった。それでも神はなおも人類を愛して、最高のプレゼントであるキリストという宝を私たちに贈ってくださった。この宝をうちに宿すとき、そこから光が指し、愛が溢れ出てくる。この宝によって私たちはキリストのからだとして成長していく。永遠にこの宝を離すことはない。
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。(ガラテヤ人への手紙 2章 20節)
(使徒の働き15章より)
内部分裂し派閥争いが耐えない状態のコリント教会に対し、パウロは自分が教会を開拓した頃のはじめの福音に立ち返るようにと諭す。死者の復活を否定する間違った教えに対しては、バプテスマを例に挙げて「死者が決してよみがえらないのなら、その人たちは、なぜ死者のためにバプテスマを受けるのですか」(29節)とその矛盾を指摘する。自分に死に、キリストに生きるという信仰の表明がバプテスマ。パウロ自身、「私は日々死んでいる」(31節)「キリストが私のうちに生きておられる」と証しする。罪人としての生まれながらの罪の性質を脱ぎ捨てて新しくキリストを着ること、よみがえりのいのちに生きること、それが、福音の中心なのである。
教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。(エペソ人への手紙1:23)
(コリント人への手紙第一 15章より)
分裂・分派に陥ったコリント教会に対してパウロが書いたコリント人への手紙第一の最後のまとめの部分において、はじめにパウロが宣べ伝えた福音に立ち返るようにと諭している。そしてその福音の中心は、復活のいのちにあずかるということであると説く。
よみがえったキリストを初穂として、キリスト者は必ずよみがえる。アダムにあってすべての人が死と滅びに向かっているように、キリストにあってキリスト者すべてがよみがえりと永遠のいのちにあずかる。そしてこの世の終わりが訪れて、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、王国を父である神に渡される。それは「神が、すべてにおいてすべてとなられるため」(15:28)だと、聖書は記している。絶対者なる神のことばは必ず成就する。
その神の審判の時はいつ来るかは誰にもわからない。私たちは、信仰の目を覚ましていなければならないと同時に、神から「奉仕者、また証人に任命」されたパウロのように、救いを知らせるものでありたい。
主を恐れる人は だれか。
主はその人に選ぶべき道をお教えになる。
(詩篇25篇12節)
(詩篇25篇より)
ダビデは、主を恐れること、すなわちまことの神様を畏れ敬うことが、人生の鍵を握るのだと語る。息子のソロモンも、「主を恐れることは知識の初め」(箴言 1章 7節)と、人間が人間として成長していくためにまず学ぶべきことは、主を恐れることであると語っている。
神は主を恐れる一人ひとりに対してそれぞれ選ぶべき道をお教えになる。主を恐れる者は、神様の祝福のうちを歩むことができ、神の財産を受け継ぐものとなる。まさに「主を恐れることは、その財宝である」(イザヤ書 33章 6節)。だから、ダビデは、「私の目はいつも主に向かう」(15)と神から目を離さずに歩む。
本当の財宝、本当の富、すなわちまことの救いを得て永遠のいのちに豊かに生きるために、主を恐れよと、神は愛をもって教えてくださる。この神の教えに聞き従い、主を恐れつつ歩んでいこう。
わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。
(マタイの福音書 4章 19節)
イエス様を否定することを予告されたペテロは、必死に「あなたのためなら、いのちも捨てます」と食い下がるが、イエス様はペテロに、「わたしが行くところに、あなたは今ついて来ることができません。しかし後にはついて来ます」と語る。
その予告どおりにイエス様を否定してしまうペテロを、イエス様は見つめられた。自分の情けなさに泣き崩れるペテロの胸には、イエス様と出会ったときの「わたしについて来なさい」という招きの言葉が響いていたことであろう。その後、イエス様の「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」という励ましのことば通り、ペテロは立ち直り、「人間をとる漁師」すなわち人のたましいを漁る者と成長していく。
全能の力をもってくびきを負い、共に歩んでくださるイエス様の招きに応え、この身を預けていこう。
わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
(ヨハネの福音書13章34節)
最後の晩餐の席で、イエス様は、弟子の一人が裏切ること、ペテロがイエス様を否定することを予告するが、それと同時に「互いに愛し合いなさい」という“新しい戒め”を弟子たちに与えた。裏切りは、お互いの関係を破壊する行為だが、ここでお互いを結びつける「愛し合うこと」が命じられているのは、キリストによって、罪によって破壊された関係、神と人との関係、人と人との関係が神の愛によって再び建て直されることが示唆しているかのようである。
「わたしがあなたがたを愛したように」とあるが、神に逆らい神に敵対していた人間を、まず神が愛したように、キリストにある愛は、相手のためにまず自分からいのちを投げ出す愛である。もちろん私たち人間はそのような愛は持ち合わせてはいない。しかし、キリストにこの身を明け渡していく時に、キリストから無限の愛が流れ出るのである。
主は羊飼いのように、その群れを飼い、
御腕に子羊を引き寄せ、懐に抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。
(イザヤ書 40章 11節)
イエス様が弟子のイスカリオテのユダに裏切られ、ユダヤ人に捕らえられる直前の最後の晩餐において、イエス様は「心が騒いだ」と記されている。弟子であり、この福音書の著者となるヨハネは、この時、イエス様の胸に抱かれるように横になっていたからこそ、イエス様の胸の内を一番に感じ取ることができたのかもしれない。
人類救済のためのいけにえとして父なる神から見放される運命を受け入れようとする心、人々に嘲られ、弟子たちにさえも見放されるという仕打ちも甘んじて受け入れると同時に、そんな彼らを愛し、慈しむ心、そしてご自身の胸にいる弟子に対して抱いている、永遠のいのちを得てほしいという強い願いをヨハネは感じていたであろう。
主は、私たちの心にいつも寄り添ってくださるお方、そして主の胸にもたれかかるヨハネの姿は、主に身を委ねていく信仰者の姿勢だともいえる。イエス様の胸に憩うと同時に、主のみこころを知り、自分の思いよりもそれを優先させていくのが、私たち信仰者のありかたではないだろうか。
見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
(ヨハネの黙示録 3章 20節)
マケドニアにいる人々に福音を宣べ伝えることが神のみこころであることを確信したパウロ一行は、ヨーロッパのマケドニアに向けて歩を進めていく。マケドニア地方のピリピという町の祈り場でパウロが語っていると、アジアから紫布の販売事業を拡大してピリピに住んでいたリディアという女性が聞き、まことの主を信じて歩んでいた彼女の心が開かれて、キリストの福音を信じるようになる。彼女を通して彼女の家のものが主を信じてピリピ教会が誕生し、またパウロ一行が行けなかった彼女の出身地のアジアにも福音が伝えられていったことであろう。
主は私たちの叫びの声を聞いてくださるお方であり、私たちが心を開くならば、キリストはいつもともにいてくださる。
主は私たちを通して、人智を遥かに超えた大いなるわざをなしてくださる。
何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
(ピリピ人への手紙 4章 6節)
(使徒の働き16章より)
第2回の宣教旅行に出かけたパウロ一行は、アジアでみことばを語る計画を立てるが思いどおりに進まず、コースを変更して進む。しばらくして、今度はビティニア地方へと向かおうとするが、やはりその計画は阻まれて反対の西へと進んでいくことになる。そのことを聖書は「聖霊によって禁じられた」「イエスの御霊がそれを許されなかった」と記し、宣教の働きの主権は神にあることが強調されている。
思いどおりに事が運ばないことがあるが、人の思いと神のみこころは違うことがあり、人の最善と人智を超えた神の最善とは違うということを私たちは心に刻んでおかなければならない。
このあと、神は、マケドニアに福音宣教することが御心であることを夢でパウロに明かされ、一行はそこに向かっていく。
私たちは、ずっと後になって神の御心がどこにあるかわかることがある。人間の弱さをも、不条理と思えることも、すべては神の御手の内にあることを覚え、神が私たちを鍛え、整えて、神の時に用いてくださることを信じて歩んでいきたい。
神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました。
(テモテへの手紙第二 1章 7節)
(使徒の働き16章より)
第二次宣教旅行に出かけようという折り、第一次宣教旅行において任務を途中で投げ出して帰ってしまったマルコと呼ばれるヨハネを連れていくと言うバルナバと、それに反対するパウロは決裂し、別々の道を行くこととなる。リステラを訪れたパウロは、そこで信仰あつく評判の良い青年テモテと出会い、彼を宣教旅行に同行させる。初めは若いということで物怖じしてしまいがちな彼だったが、やがてパウロの良き同労者と成長していく。一方マルコと呼ばれるヨハネも、苦い経験を通して人格的に成長し、後にパウロは彼を「役に立つ」男であると推薦するようになる。テモテやマルコの成長を見て、パウロもまた、神のみわざの偉大さを思い知って、成長していったことであろう。
神の霊が人を新しい出会いに導き、人を成長させる。今のそのままを神の前に差し出していくとき、神が私たちを用いられる器へと整えてくださる。そこに主のみわざが現されていく。
ですから、信仰によって生きる人々が、信仰の人アブラハムとともに祝福を受けるのです。
(ガラテヤ人への手紙 3章 9節)
(創世記20章より)
アブラハムの嘘によって危うくアビメレクと彼に属する者すべてに災いが及ぶところだったが、アビメレクは彼に償いを求めないばかりか、かえってたくさんの家畜や土地を与えて真実を尽くす。神との交わりのなかでアブラハムが神に選ばれ、神の祝福を全人類に取り次ぐ者であることを受け止めたのであろう。アビメレクのこの態度は、ストレートに責められるよりも鋭くアブラハムの胸に突き刺さったのではないだろうか。アブラハムはアビメレクの祝福を祈り、アビメレク一族からわざわいは過ぎ去り、子宝にも恵まれるようになる。アブラハムにとっては自らの使命を改めて自覚する機会となり、この出来事を通しても彼は霊的に成長していく。
神のことばを真正面から受け止めていくとき、私たちは人を祝福をとりなす器へと成長していく。みことばとどう向き合っていくかが問われている。
わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。
全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。
(ホセア書 6章 6節)
アブラハムが妻サラを妹だと偽ったことで、サラを召し入れたゲラルの王アビメレクは自らと属するすべての者に災いが及ぶことを神に告げられ、アブラハムに事の次第を問いただす。しかしアブラハムはこの土地の人民が悪い、サラは異母兄弟なので妹というのは嘘ではない、と自分の否を認めようとはしない。さらには「妻は私に真実の愛を尽くしている」と話をすり替えていく。彼は「真実の愛」という言葉を殺し文句として使い、妻を従わせていたのかもしれない。
神のみが、真実の愛をもって人を愛したもう。それは、神に背を向け、神に敵対する人類のためにその身を犠牲にしたキリストに表されている。
情けない失敗を繰り返すアブラハムを、神は愛し、霊的に成長するように見守っていてくださるように、主は、弱い私たちをなお真実の愛で愛してくださる。
主が喜びとするのは、真実の愛。私たちはキリストを信じるとき、義の衣としてキリストをまとい、真実の愛をキリストの霊を頂くことができる。主の愛に生きることを学んでいこう。
人を恐れると罠にかかる。しかし、主に信頼する者は高い所にかくまわれる。
(箴言 29章 25節)
(創世記20章より)
信仰の父と呼ばれたアブラハムも弱さのゆえに失敗をしてしまう人間であった。彼は人を恐れるあまりに嘘をつき、人を神が望まれない行動に導き、やがて多くの人に禍をもたらしてしまう。エジプトにおいてアブラハムは、妻サラの美しさのゆえに、自分は殺されてしまうことを恐れて、サラを妹だと嘘をついた。ここでは同様の失敗を繰り返してしまう。
今度はゲラルの王アビメレクがサラを召し入れたのだが、神は主を仰いで正しく生きるアビメレクを顧みて、サラがアブラハムの妻であることを知らせ、彼女をアブラハムに返すように命じ、もし従わなければ死ぬことになる、と警告する。
私たち人間が一番恐れるべきお方は神である。自分の身を守ること、社会生活で人と平和裏に物事をすすめることも大事だが、あまりに人を恐れると神のみこころを損ねてしまうことがある。しかし、「主に信頼する者は高い所にかくまわれる」(箴言 29章 25節)とあるように、神は私たちのたましいを守ってくださるお方。
この神を恐れ畏んで、神のことばに耳を傾け、歩んでいきたい。
このように揺り動かされない御国を受けるのですから、私たちは感謝しようではありませんか。
(ヘブル人への手紙 12章 28節)
(コリント人への手紙第一15章より)
聖書のことば以外のことばにより頼み、内部分裂を起こしているコリント教会に対し、パウロは、 初めの教えを思い起こすようにと諭す。そして、聖書が語っているとおりに、キリストが人類の罪を贖って死に、聖書が語っているとおりによみがえったと、教会でまことしやかに語られていた、死者のよみがえりはないとする教えは誤りであることを断言する。
クリスマスというキリストの降誕を祝うことより、十字架をシンボルとすることよりも、キリスト者が覚えるのは主の復活であり、このよみがえりのいのちに生きることが、聖書の中心のメッセージ。キリストのよみがえりこそが、人類の罪が贖われたことの証しである。
永遠のいのちは、死んでから得られるものではなく、キリストを信じたときから始まる。それは、神とともに、神のために生きる喜びに満ちた生き方。私たちには、天を想う生涯が約束されている。
ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが。
(コリント人への手紙第一 15章10節)
パウロは、コリント教会の人々に、福音の本質について今一度思い起こすようにと教え諭す。「私がどのようなことばで福音を伝えたか」と、コリント教会で流行していたわけのわからない「異言」ではなく、はっきりとわかる言葉で伝えたことを強調する。「キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと」(3)「聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと」(4)と、信仰の土台は聖書の言葉であること、そして、復活の主が多くの弟子たちに現れ、パウロ自身にも現れたことに触れ、信仰はキリストに個人的に出会うことで始まることを語る。また全ては神からの恵みであり、人間側に誇るものがないことを強調し、自分の賜物を誇っていたコリント教会を諌めている。
確かな土台に足元を置いての歩むことこそが、教会の成長につながっていく。これが福音に生きるということなのだ。
神は混乱の神ではなく、平和の神なのです。
(コリント人への手紙第一14章33節)
パウロはコリント教会に対し、「考え方において子どもになってはいけません」と、教会が成長して大人となるように強く訴える。教会の成長は人数が増えることというよりも、メンバー一人ひとりがキリストにあって成長すること。
コリント教会では、異言の賜物が与えられたと自慢し教会の中でひけらかす者ばかりとなり、初めて教会に来た人の前でも異言で語ったり祈ったりしていたが、それでは教会は狂人の集まりだとみなされるだけであり、教会の成長にはつながるわけがないとパウロは指摘する。そして、解き明かすものがいない状態で異言を語ることをかたく禁じている。もし本当にその異言が神からものであれば解き明かすことができ、混乱を招くことにはつながらないと、当時のコリント教会で流行っていた「異言」にはパウロは懐疑的な姿勢をとっているとも受け取れる。
平和の神からの霊を受けている私たちは、お互いに愛の絆により結び合わされ、秩序を保ちながらキリストのからだとして成長していくことを求めていく──それが教会なのだ。
わたしがあなたがたのうちにわたしの霊を入れると、
あなたがたは生き返る。
(エゼキエル書 37章 14節)
(エゼキエル書37章より)
バビロンに捕囚されていったエゼキエルは、そこで預言者として同じ捕囚の民に神のことばを語り、書き記していた。「枯れ骨の谷の預言」と呼ばれる37章は、おびただしい数の干からびた骨が、主の預言のことばによってつなぎ合わされ、筋と肉と皮膚が生じて、ふたたび身体が出来上がり、息を吹き込まれることによって生き返ったという幻が記されている。神の民イスラエルの復興の預言であるとともに、罪によって滅びに向かっていた者も、キリストを信じるならば、主の霊が与えられ、そこから新しい歩みを始めることができるという約束である。聖霊降臨の出来事は、キリストにあって私たちの人生に再生がもたらされる出来事なのである。
主の道はみな恵みとまことです。
(詩篇 25篇 10節)
(詩篇25篇より)
ダビデは、主に、「思い起こしください」と祈るとともに、「思い起こさないでください」と願う。主が憐れみと恵みに富んでおられる方だということを根拠に、自らの罪、過ちの赦しを乞うている。神の前には誰でも罪人であり、そのままでは神と交わることができない。だから、「恵みとまことはイエス・キリストによって実現した」(ヨハネの福音書 1章 17節)とあるように、人類の罪を自らのいのちをもって贖い、人類に踏みつけられる「道」となるために、キリストがこの世に降ってきてくださったのだ。キリストを信じる者は、この「恵みとまことの道」を歩むことができる。ダビデは、いのちの道を歩む者は、満ち足りた喜びと楽しみという祝福に与ることを歌っている(詩篇 16篇 11節あ)。主が備えてくださったこの道を、感謝して歩んでいこう。
主よ あなたの道を私に知らせ
あなたの進む道を 私に教えてください。
(詩篇 25篇4節)
(詩篇 25篇より)
いつも敵に囲まれているようなイスラエルの国であったが、ダビデは、一国の王として、民が守られるように「主よ あなたをわがたましいは仰ぎ求めます」(1)と、心の底から神を見上げて切に祈る。私たちはたとえ四面楚歌のなかでも、上(天)はいつも開けている。
そしてダビデは、「,主よ あなたの道を私に知らせ あなたの進む道を私に教えてください。」(4)と祈り求める。「主の道」とは、人生の岐路において主にあって進むべき道を選択することであり、あるときはそれは主が備えてくださる「逃れの道」であり、また私たちが主に向かって歩む道、主の後に従っていく道でもある。主の道は祝福の道であり、恵みの道である。
一人ひとりに神が備えておられる道を知ることができるように求めつつ、主の道に歩ませていただこう。
愛をもって互いに仕え合いなさい。(ガラテヤ5:13)
弟子たちの足を洗い終えたイエス様は、ご自身と弟子たちが師匠と弟子の関係であることを強調して、あなたがたに模範を示したのだと語った。芸事・スポーツなどでは、弟子は師匠を模範として見て、真似することから始めて芸や技を覚えていく。私たちはこのイエス様の姿から、人よりも低くなり、互いに仕え合うことを体得することが求められている。もちろんそれは、罪人である人間のなせることではない。イエス様につながることで、神の御霊によって私たちはキリストの身丈にまで成長させていただくのである。そしてイエス様ご自身が「わたしはある」すなわちモーセに名を明かされた神と等しい方であることを語られる。絶対者のことばであるイエス様の教えを、主に造られた私たちは従順に受け止めていかねばならない。
主はあなたがたを最後まで堅く保って、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところがない者としてくださいます。(コリント人への手紙第一 1章 8節)
(ヨハネの福音書13章より)
過越の祭りの前のこと、この地上での最後の時が近づいたことを知っておられたイエス様は、弟子たちの足を洗って回った。弟子たちは驚き、とまどう。人の足を洗うというのはしもべの仕事であるからだ。神の子キリストが人に仕え人の身代わりになって死ぬために地上に降りてきた、それがイエス様であることをこの行為が物語る。ペテロは「私の足を洗わないでください」と遠慮するが、イエス様は「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります」ときっぱりと言う。人はキリストを信じるだけで神の前にきよい者とされ神の子の特権をいただく。しかし同時にイエス様は私たちに、「わたしにとどまりなさい」「わたしの愛にとどまりなさい」とキリストとの関係をずっと保つように説く。キリストこそが、この世で生きていく私たちの足元を洗いきよめつづけてくださるお方。いつも私たちの足をキリストのもとに置く、それが揺るがされない、生き方なのだ。
イエス様は、弟子たちを最後まで愛されたように、私たち一人ひとりに永遠に余すところなく愛を注いてくださるお方。このキリストにとどまり続ける、キリストとつながりつづける、このいのちに私たちがいきること。それがキリストの愛に応える生き方ではないだろうか。
わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。(マタイの福音書28章20節)
(マタイの福音書28章より)
イエス様が復活した事の次第を、墓を見張っていた番兵たちから報告された祭司長たちは、兵士たちに多額の金を与えてまで、イエスの弟子たちが遺体を盗んでいったと偽証するように仕向ける。かつて銀貨30枚でユダを買収した彼らは、またも金で神のみわざを否定しようとしたのである。
一方、ユダと同じように、イエス様を3度否定し裏切ったペテロは、ガリラヤに出向き、復活の主にまみえることとなる。ペテロは「わたしを愛するか」と語るイエス様のことばに、見事に立ち直っていく。
キリストは、罪ゆえに神を愛し人を愛することができない人間に「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:4)という新しい戒めを語り、キリストの愛にとどまることを命じておられる。
キリストの贖いの血潮は誰にでも、有効であり、私たちがどれだけ失敗しても、キリストの愛が私たちを離れることは決してない。今日もキリストは、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」と私たちを励ましていてくださる。
あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります。(ヨハネの福音書 15章 8節)
(マタイの福音書27章より)
議員であったアリマタヤのヨセフは、イエス・キリストを救い主だと信じたが、他のユダヤ人の議員の手前、その信仰を公にできずにいた。しかし、イエス様を捕らえて殺そうとする他の議員たちの計画には同意することをせずに、十字架で死なれたイエス様の遺体を下げ渡しを願って、その信仰を公にするまでに、彼の信仰はより確かなものとなったのである。そしてイエス様のからだを自分のために作った新しく立派な墓に埋葬したが、ローマの兵士たちが封印をして番をしたことで確かに遺体がその墓に納められたことが証明され、そしてキリストがよみがえって墓から出たことが、よりはっきり証しされることにつながっていく。
もともとは自分の人生の集大成として用意した墓をキリストの弟子として主にに差し出すことによって、彼は神の栄光を現した。キリストの弟子として歩む祝福を、彼は今の私たちにも伝えている。
ここにはおられません
わたしは、よみがえりです。いのちです。
わたしを信じる者は、 死んでも生きるのです。
(ヨハネの福音書11:25)
(使徒の働き28章より)
イエス様のからだに香油を塗ろうと、埋葬された墓を訪れた女性たちは、驚くべき光景を目の当たりにする。大地が揺れ動き、主の使いが天から降りて来て墓を塞いでいた石をわきに転がし、その上に座ったのだ。天使は「ここにはおられません。…よみがえられたのです」と彼女たちに空の墓を見せ、ガリラヤで復活の主に出会えることを告げる。彼女たちはこのことを知らせに大急ぎで他の弟子たちのところに走っていく途上で、イエス様が彼女たちの前に姿を現した。喜びのあまり彼女たちはイエス様の御足を抱き、そこで主を礼拝した。
私たちの負い目はすべてキリストが十字架において清算してくださった。だから、もう私たちは古いものにとらわれず、復活の主を仰ぎ見ることができる。そして死からよみがえられたイエス様のいのちに私たちもあずかることができる。私たちの人生を揺るがすほどの大きな主のみわざ、それがイースターなのだ。
この方こそ神の子です(使徒の働き 9章 20節)
(マタイの福音書27章より)
十字架につけられたイエス様が十字架で大声で叫んだ言葉「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」は、詩篇22篇の冒頭部分。このメシアの贖いの預言をご自身が成就するという、イエス様の最後のメッセージであった。イエス様が息を引き取った時、「神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた」(51)のは、キリストの贖いによってきよい神と汚れた人間との隔ての壁が取り払われたことが表されている。キリストを信じる者は神と交わる者とされたのだ。そしてそれまでイエス様をののしりあざけっていたローマ人の兵士は、イエス様の最期見て、「この方は本当に神の子であった」(54)と漏らしたのであった。
キリストのことばとそのみわざを真っ直ぐに見るならば、私たちは、そこにまことの神を見ることができる。この方こそ、神の子キリストであり、この方以外に救いはない。この神の愛のみわざが、私たちのうちに起こる、それが神の贖いのみわざ。この愛のうちに私たちは生きることができる。
そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。
(マタイの福音書 16章 21節)
イエス様が語っていたこのことばのとおり、そして旧約聖書の預言通りに、イエス様は捉えられてから、ののしられて苦しみを受け殺され、三日目によみがえる。
捕らえられ十字架につけられたイエス様は、「他人は救ったが、自分は救えない」(マタイ27:42)というののしりのこのことばを受けるが、このことばこそが、まことの神の愛を表したことばだといえる。「十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう」と言われて、もちろん神の子イエス様はたやすくできる能力があった。しかしそれでは神が愛するすべての人を救えない。人類を罪から救うためには、ご自身を犠牲にしなければならないという、その使命のために、イエス様はご自分を救うことはおできにならなかったのだ。
私たちを救い生かすために、キリストはののしられても苦しめられても、それを甘んじて受けられた。今、この神が、私たちの味方なのだ。だから、私たちはいつも自分を励ましながら。神様をあがめつつ、歩んでいくことができる。
かつて書かれたものはすべて、私たちを教えるために書かれました。それは、聖書が与える忍耐と励ましによって、私たちが希望を持ち続けるためです。(ローマ人への手紙 15章 4節)
(使徒の働き15章より)
エルサレム会議を終えて、パウロとバルナバは議事録を携え、ユダとシラスを伴ってアンティオキア教会に戻って行った。異邦人クリスチャンには必要以上の重荷を負わせないという決定と、ユダとシラスが語るみことばに、アンティオキア教会の人々は大いに励まされた。その後パウロとバルナバは、宣教旅行でキリストを信じた人たちが恵みから落ちないようにと、またフォロアップの目的も兼ねて、再び宣教旅行を始めることを計画。しかし、前回の旅行で途中で帰ってしまったマルコを同行させるかを巡って意見が対立し、袂を分かつこととなり、別行動をとり出発した。人間的な弱さや失敗を越えて、神のことばは進んでいく。そして多くの神を信じる者の励ましとなっていくのだ。
私たちはこれらのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊も証人です。
(使徒の働き 5章 32節)
(使徒の働き 15章より)
パウロとバルナバの宣教よって多くの異邦人がキリストを信じるようになったが、一方、割礼を行わない異邦人は救われないと説く者が現れ、エルサレム会議で協議することとなる。人は信仰のみで救われるが、同時に、ユダヤ人クリスチャンがつまずく行為は控えるように異邦人クリスチャンに申し渡すという、ヤコブの主張が採択され、「聖霊と私たちは…決めました」(使徒15:28)と書状にも明記された。自分の思いよりも御霊にある愛を優先させていく、御霊とともにキリストを証ししていく、それが主にある私たちの生き方なのだ。
おとめイスラエルよ。再びわたしはあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び踊る者たちの輪に入る。(エレミヤ書 31章 4節)
(使徒15章より)
パウロとバルナバの異邦人伝道に対し、ある者が割礼の風習が無い異邦人がそのままでは救われないと異議を唱えたこときっかけとなり、エルサレム会議で議論されることになった。議場では、ペテロに続いてイエスの弟ヤコブがアモス書から引用して発言する。
「わたしは倒れているダビデの仮庵を再び建て直す。…わたしの名で呼ばれるすべての異邦人が、主を求めるようになるためだ」(アモス9:16,17)。不信仰のゆえに仮庵、廃墟のようになった神の民が異邦人の悔い改めによって再建されるという預言。私たちがどんなボロボロの状態であっても主を見上げるならば、そのたましいは回復し、それが神の国が再建につながっていく。これが福音の約束の言葉なのである。
第一次伝道旅行からアンティオキアに戻ったパウロとバルナバ。そこで、ユダヤからやって来て割礼が救いの条件であると教える者との間に対立が生じ論争となる。それで教会の主だった者が全国から集り、この問題について話し合うこととなる。これがいわゆる「エルサレム会議」であり、割礼を施さない異邦人が救われるのかということが議論された。ペテロは、異邦人も福音のことばによってきよめられ、聖霊の証印が押されていると力説し、それを聞いた一同は黙ってしまう。
神は、民族によって人を差別することをせず、福音は文化を超えていく。人は行いによらず、ただ神の恵みによって主を信じるだけで救われるのである。私たち人間が障壁を作ることをせずに、福音を広げていくことが神に期待されている。
主はご自分の契約をとこしえに覚えておられる。命じられたみことばを千代までも。(詩篇
105篇 8節)
(創世記19章より)
神は、あまりに堕落した町を天から硫黄と火を降らせて滅ぼされた。アブラハムはかつて甥のロトが住んでいたその町を見つめていたその時、「神はアブラハムを覚えておられた」(29)。不安定な信仰とも言えるロトの歩み、そして父親を泥酔させて父の子を設け子孫を残したロトの娘たち。しかし、その子孫を通して何と人類の救い主キリストが生まれるという不思議な神の摂理が働く。いかに人間が罪深くても、キリストの贖いのわざはそれを覆うほど主の恵みは大きく深い。アブラハムが信仰により義と認められたように、神は主を仰ぎ信じる者を受け入れ、永遠のいのちを与えられる。神は、アブラハムと交わした人類の救いの約束を決して忘れることがないのだ。
神へのいけにえは砕かれた霊。打たれ砕かれた心。
神よあなたはそれを蔑まれません。
(詩篇 51篇 17節)
ソドムの町を滅ぼすために遣わされた天使が、ロトに山の上に逃げるように促すが、そこまでは逃げることができないと考えたロトは、もっと近くの小さな町に逃げ込みたいからいのちを助けてほしいと、懇願する。天使はそれを受け入れ、その町を滅ぼさないこと、ロトがその町に入るまでは何もしないことを約束する。その町はツォアル(「小さい」「取るに足りない」という意)と呼ばれた。かつては広く肥沃な土地を選び、そこで成功することを夢見ていたロトだが、神の取り扱い受けた今、自らの小ささ、足りなさを自覚し、小さい町に逃げることを願い出たのであった。神の前にくずおれた砕かれた心を主は喜ばれる。主はロトに目を留め、哀れみ、そのいのちを救った。信仰の高みへ上ることは、神の前に低くされることなのだ。
神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからです。
(テサロニケ人への手紙第一 5章
9節)
(創世記19章より)
もし10人正しい者がいたらこの町を滅ぼさないと、アブラハムに主にとりつけた約束は空しいものとなった。いよいよソドムの町が滅ぼされることを、旅人として招いた天使たちがロトに語ったのだ。ロトは娘婿たちにも逃げるように迫るが、彼らは冗談だと思い取り合わない。そしてソドムに移り住んでからそれなりの富や地位を手にしていたロトも、それらを惜しむ心からかその町を出ることに躊躇していた。しかし、人間にはいのちにまさるものはない。キリストは私たちにいのちを得させるために、自らのいのちを犠牲にしてくださった。私たちはいのちがけでこのいのちを得ないならば、それはキリストの死を無駄にすることなのである。そして私たちは、さらにいのちを豊かにするために、恵みの高みを目指して歩んでいこう。
私が苦しみの中を歩いてもあなたは私を生かしてくださいます。私の敵の怒りに向かって御手を伸ばしあなたの右の手が私を救ってくださいます。
(詩篇 138篇 7節)
(創世記19章より)
旅人の姿をとった二人がソドムの町に着いた時、ロトは彼らを家に迎え入れもてなした。事件はその夜起こった。町中の男たちが家を取り囲み、旅人の二人を連れ出すように迫る。二人をなぶりものにするのだという。二人を守ろうとロトは外に出て彼らと対峙して、代わりに娘を差し出すとまで言うが、彼らはロトにも危害を加えて家の中に入ろうとしていた。その時、天使たちが手を伸ばして、ロトを家の中に引き入れて、戸を閉めた。さらに外にいた者たちは目つぶしを食らい、一晩中扉を探すことができずに力尽き、ロトと家の中の者は皆、無事で済んだのである。
私たちも聖書の価値観、倫理観から遠く離れたこの世に生きていく中で、疎ましく思われたり迫害を受けるようなことがあるかもしれないが、主はすぐそばにいて、その全能の御手を伸ばして私たちを守り、救ってくださる。この御手にすがって頼って、歩んでいこう。
愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。(コリント人への手紙第一 14章1節)
コリント教会においての分裂・分派の問題は、愛の欠如が一番の要因であることをパウロは指摘する。異言のの賜物が与えられた者がそれを誇るかのように人前で異言を語っていることに対し、パウロは、解き明かしがない場合においては語らないようにと制限を与える。そして御霊の賜物においては、異言よりも預言が、教会の成長につながると説く。預言とは、聖書から神の教えを受け止め、罪人である人間のために神ご自身が大きな犠牲を払って救いの道を用意してくださった神のみわざを語ることである。私たちは、教会においての行動の基準として「教会の成長につながるか」ということを常に念頭に置くことが重要である。教会の成長とは、すなわち私たち一人ひとりが成長すること。神の教えの中心は「神を愛し人を愛すること」であり、「自分と同じように隣人を愛せよ」とイエス様は語った。キリストのからだである私たち自身が成長するために、私たちは、神を愛する愛、人を愛する愛、そして自分自身を愛する愛を追い求めていこう。
主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、懐に抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。
(イザヤ書 40章 11節)
聖書では、神と人間との関係を羊飼いと羊に例えているところがある。かつて自ら羊飼いであったダビデも「主は私の羊飼い」(詩篇23:1)と謳っている。羊飼いはその土地に歴史を刻む仕事として誇りを持ち、羊飼いを生業とする者にとって、羊はなくてはならない存在であり、彼らの生活そのものであり、いのちと言ってもいいものである。神様にとっては、人間を愛し育て導くことを生業のようにして、私たちを慈しみ、大事に取り扱ってくださる。「私は乏しいことがありません」(詩篇23:1)とは、衣食住が足りているということ以上に、神とともにいることのまことの平安のなかで憩い、満ち足りている様を現している。神のために何かをするというよりも、私たちが神様の愛の中に憩うことが、神を神たらしめること、神の栄光をあらわしていくことなのだ。
わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。ですから、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのまま話しているのです。(ヨハネの福音書 12章 50節)
イエス様は、「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を信じるのです。」(12:44)と、ご自身は、ご自身を通して父なる神を信じるために遣わされた存在であることを強調する。そして、ご自身と父なる神が一つであること、(ヨハネの福音書10:30)、旧約聖書の教えを廃棄するためではなく、成就するためにこの世に来られたことを明かされていた(マタイ5:17)。
父なる神のスポークスマンとしてイエス様が私たちに伝えたメッセージは、「永遠のいのちに生きよ!」。この、旧約聖書の教えの中心と全く同じメッセージを携えて、イエス様はこの世に来てくださり、神の愛のゆえの贖いのみわざを十字架においてはっきりと示してくださった。
そして今、主の御霊を頂いている私たちも、いのちの営みを通して、この永遠のいのちを証ししていく「いのちのメッセンジャー」となることができるのだ。
あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。
(エゼキエル書 36章 26節)
(ヨハネの福音書⒓章より)
イエス様は町々・村々をめぐり神の国を宣べ伝えると同時に、病人を癒し悪霊を追い出すという数々の奇跡も行った。その極めつけは、死んだラザロをよみがえらせたことであろう。しかしそんな神の力を見ながらも、人々はイエスを信じなかった。ヨハネは「主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか」と、イザヤ書を引用し、人々から拒絶されるメシアの姿が預言されていたと説く。そして「イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たから」(41)と、私たちがイエス様に見るべき本当のものを教える。ヨハネは、イエス様が十字架で贖いのわざを成就したときのことを「栄光を表した」と表現しているが、そこには神のまことの愛が表されたからである。
神が私たちに新しい心を与え、霊の目を開いてくださることによって、イエスのうちに本当に見るべきものが見えてくる。神の栄光を仰ぎながら、新しい年を歩んでいこう。
私はいつも主を前にしています。
主が私の右におられるので
私は揺るがされることがありません。
(詩篇 16:8)
ダビデは、神様に信頼して歩むことの幸いを歌う。彼は、いつも主を前にしている、私の前に主を置くと告白する。私たちの目の前に起こる、様々な出来事、問題をみて、現実を見て、私たちは驚き、戸惑い、不安になり、悲嘆に暮れて、絶望的になることもある。しかし、まことの神を信じる者は、それらの現実を見ながらもその前に主を置くことができる。いつも主と向き合い、主の恵みとまことを知るものは、揺るがされることがない。さらに、主はいつも私の右にいてエスコートをしてくださる。神を前に置く豊かな信仰生活を送る年としたい。