エマオへの道で・1 〜ともに歩まれる神〜
話し合ったり論じ合ったりしているところに、イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始められた。
(ルカの福音書24章15節)
(ルカの福音書 24章13-20節より)
イエス様が復活した日、暗い顔をしてエマオという村に向かっている二人の弟子がいた。イエス様が十字架にかかり死なれたことで、絶望感、喪失感で途方に暮にれていたのである。そこに近づいて来た一人の人が、何の話をしているのかと尋ねる。二人のうちの一人が、エルサレムで起こったことを知らないなんて、と驚くと何があったのか話してくださいと促すと、彼らは心を開いて心の内を話し始めた。
霊の目がふさがれていた彼らにはそれがイエス様だとはわからなかったが、そんな彼らにイエス様は近づき、話を聞き、一緒に歩かれた。
キリストはどんなときにも私たちのところに来られ、私たちの心の内を受け止められ、そして神に見捨てられているように思うときにも必ずともに歩んでくだり、そして苦しいときには背負ってくださる神である。私たちはこのキリストとともに御国まで進んで行こう。
ですから、あなたがたは心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。(ペテロの手紙第一 1章13節)
(ペテロの手紙第一 1章13-19節より)
迫害により各地に散らされているクリスチャンに対し、ペテロは、「イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい」と励ましの言葉を贈る。聖徒は、銀や金のような朽ちる物ではなく、子羊キリストの、尊い血による贖いのゆえに、神の子どもという特権を与えられる。そして乳飲み子のように、純粋な乳である主ご自身との交わりを豊かに持つことで、神の子どもとしてふさわしく聖なるものと変えられていく。
この神の恵みの上に私たちは望みを置くことができる。この世に揺るがされることなく、キリストの現れを待ち望みつつ歩んでいく私たちでありたい。
しかしそこから、あなたがたがあなたの神、主を探し求め、心を尽くし、いのちを尽くして求めるとき、あなたは主にお会いする。
(申命記 4章 29節)
(詩篇34篇8~10節より)
「味わい見つめよ。主がいつくしみ深い方であることを」と、(8)とダビデは語る。どんなものよりも美しく麗しい主を味わい見つめることができるとは、なんという恵みであろうか。そして主のいつくしみ深さは、私たちのまことの友となり、私たちのためにいのちを投げ出してくださったキリストによって現された。このキリストが、神と人との架け橋となってくださったことにより、人は心を尽くし、いのちを尽くして求め、主にお会いすることができることが約束されている。私たちは「主に」求めること以上に「主を」求めることができる。主にまみえる時を心待ちにしながら歩みたい。
ここにはおられません。よみがえられたのです。
(ルカの福音書24章6節)
(ルカの福音書24章1-11節より)
イエス様の埋葬のために墓に香油を持って行った女性たちに天使が現れ、「どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。」と語りかける。私たちはこの世だけでなく、天を見上げるとき、そこに復活のいのちを見ることができる。
さらに天使はイエス様の言葉を思い出すようにと促す。神のことばを覚え、信頼していく時に、みことばがこの身に実現する。
「良い知らせを伝える人の足は、山々の上にあって、なんと美しいことか」(イザヤ書 52章 7節)。キリストがよみがえったという福音を知らせようと走って行った女性たちの信仰と献身があったからこそ、今日まで宣教は支えられてきた。
キリストの十字架の死と復活があったからこそ、私たちは罪赦され、私たちのうちに新しいいのちが始まる。よみがえりの朝は私たちにも訪れるのだ。
わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。
(マタイの福音書 5章 17節)
(ヨハネの福音書19章23-30節より)
十字架にかかったイエス様の衣服を兵士たちはくじ引きにしたが、それは詩篇22篇に預言されていることばの成就となった。イエス様が十字架の上で言った「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」ということばは、この詩篇の預言が、今まさに成就するという宣言であった。
イエス様は十字架のそばにいた母マリアを弟子のヨハネに託した。「だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、母なのです」(マタイの福音書 12章 50節)とイエス様は語られたように、私たちはキリストのからだである教会を立て上げていく霊的な家族として召されている。
息を引き取る間際の「完了した」ということばは、贖いのわざの完成の宣言である。この絶対的な権威を持っていることばの前に、何者も口を挟むことはできない。聖書の成就によって、私たちは、罪から解放され、神の家族を形成するという使命に生きるのである。
「わたしが王であることは、あなたの言うとおりです。
わたしは、真理について証しするために生まれ、そのために世に来ました。
真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」
(ヨハネの福音書 18章 37節)
(ヨハネの福音書19章12-22節)
総督ピラトは、ユダヤ人たちに捕らえられ、訴えられているイエス様のうちには、何の罪も見いだせないでいたが、結局ピラトはユダヤ人たちの声に負けて彼らにイエス様を引き渡した。イエス様の罪状書きに、ピラトは「ユダヤ人の王」と記すと、ユダヤ人たちは「自称」と付け加えるようにと要求するが、ピラトは「私が書いたのだからそのままにしておけ」と突っぱねる。イエス様とのやりとりの中でイエス様が天的な存在であることを感じ取っていたピラトの、精一杯の信仰告白であったと言えるかもしれない。
私たちには心の王座に神に座っていただくか、あるいは自分が座るかの2つの選択しかない。神を受け入れないならば、キリストを抹殺しようとしたあのヘロデ大王と同じである。
私たちはキリストを我が主、我が王としてこの身を委ねて歩んでいく。
神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、
すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。
(ローマ人への手紙 8章 28節)
(使徒の働き 23章11-16節より)
ユダヤ人たちは徒党を組み、パウロを殺すまでは飲み食いしないとまで誓うほどに殺意を燃やし、祭司長、長老たちと手を組んでパウロを殺そうという計画を立てた。しかしパウロの甥がその策略を耳にする。この青年はパウロの身を案じ、情報収集に奔走し、命の危険を賭してパウロや千人隊長のところに知らせることで、パウロを救ったのである。
「すべてのことがともに働いて益となる」ということばは、数々の迫害や危険な目に遭ってきたパウロが、神からローマに宣教に行くことを告げられて、ローマに行くことを心待ちにしながら書いたもの。益というのは、自分の思い通りに事が運ぶということではなく、神にとって最善がなされるということ。
神は「勇気を出しなさい」(11)と私たちを励ましてくださる。神が自分を今、ここに置かれていることの意味を受け止めるとき、神はみこころのために、私たちを用いてくださる。
まことに、まことに、あなたがたに言います。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見ることになります。
(ヨハネの福音書 1章 51節)
(創世記28章10~15節より)
ハランへと旅立ったヤコブはある場所で野宿しているときに、夢で、天からのはしごが地に立ち、そこを天使たちが上り下りしている幻を見、その上に立つ神からの声を聴く。そこでアブラハムからイサクに継がれた神様の約束をヤコブが継ぐことがはっきりと語られる。その一族への祝福は、神を信じるすべての者、すなわち信仰によるアブラハムの子孫への祝福でもある。ヤコブに地上の場所を与えた神は、私たちに天国での永遠の住まいを備えてくださる。子孫が増え広がるという祝福は、みことばが前進し、私たちに信仰による霊的な子孫が増えるという約束でもある。そしてご自身こそがこの天からのはしごであるとキリストは証しされた。十字架でのあがないのみわざのゆえに、天におられる神と地にいる私たちとの交わりが回復したのである。雲間から差し込む光を英語でjacob's ladder(ヤコブの梯子)と表現するように、私たちがどんなところにいても神の光は届く。この光を見上げ、天を目指して、私たちはこの世を歩むのである。
兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。
(ガラテヤ人への手紙 5章13節)
(ガラテヤ人への手紙 5章11-15節より)
人が救われるためにはキリストを信じるだけでなく割礼というしるしが必要だと説く人に惑わされている教会に対し、パウロは、今迫害を受けていることこそが、パウロが語る福音が本物であることの証拠であると語る。
人類は神の前に罪を犯して、死と滅びという縄目に縛られていたが、罪のないキリストの犠牲によりその罪を贖い、私達を買い戻してくださったことで、私たちは自由とされた。私たち人間の努力ではなく、肉体のしるしでもなく、このキリストこそが私たちを自由としてくださるのである。
本当の自由とは、神の息吹の中、つまり神の霊によって生きるということ。私たちはこの自由を肉の働く機会としてではなく、愛をもって互いに仕え合うために使うことができる。これが福音なのである。
私の舌は告げ知らせます。あなたの義を。日夜あなたの誉れを。
(詩篇 35篇 28節)
(ペテロの手紙第一 1章8-12節より)
迫害にあって各地に散らされているクリスチャンを励ますこの手紙において、ペテロは、「ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています」と彼らの信仰を称えている。彼らの喜びは、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからだと語る。
そしてこの救いについては、すべての造られた者に福音を伝えようとして預言者が語り、聖書記者たちが記し、それが今日まで語り告げられ、告げ知らされてきた。それで今私たちはキリストを知ることができている。
福音は人によっ語り告げられているという性質を持っていて、どんななかにあってもこの福音を告げ知らせるのが、福音に生きるものの使命である。
危険や飢えや苦悩にさらされていても、主を信じる者はキリストを霊の目で見上げることができ、喜びに踊ることができる。この力ある福音を伝える使者として神は私たちを用いてくださる。
いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい。(エペソ人への手紙 5章 20節)
(詩篇34篇1-7節より)
「私はあらゆるときに主をほめたたえる」(1)と、どんなときにも神様をほめたたえると語るダビデだが、この詩が書かれた背景には、序文にあるように、敵の前で気が触れたようにふるまって難を逃れたという経験があった。
これ以上ないという醜態を晒したダビデであり、彼の信仰の弱さだと指摘する見方もあるが、ダビデは、自分のいのちが助かったのは、そこに主の助けがあったのだと感謝している。
私たち主を信じるものは、自分の信仰の強さを誇ろうとすることは無意味であり、みじめな自分の姿を認めたうえで、そこに神の力が現わされるがゆえに、神を誇っていくのである。
キリストがこの世とは違う平安を下さり、私たちには主の御霊が与えられているからこそ、私たちはどんななかにあっても感謝と賛美の日々を送ることができるのである。
キリストはすべての支配と権威のかしらです。
(コロサイ人への手紙 2章 10節)
(ヨハネ19章6-11節より)
ユダヤ人たちに捕らえられたイエス様のことで、総督ピラトは苦悶していた。イエス様のうちに何の罪も見いだせないばかりか、普通の人間とは明らかに違う神がかったものを感じていた彼は、イエス様に死刑判決を下すことは、自分の良心にも反するばかりか、災厄に見舞われるのではないかと恐れていたのである。
彼の妻もイエス様のことで夢にうなされ、あの男には関わらないようにと願っていた。しかし群衆は「イエスを十字架につけろ」とわめきたて収まりがつかない。ピラトは何か打開策を見出そうと、「私にはお前を死刑にする権威も生かしておく権威もある」とイエス様に迫る。そんなピラトにイエス様は、神の御子であるゆえ、神の権威のみしか自分をどうすることもできないと返答する。それは、「父なる神は、おまえのたましいもからだも滅ぼすことができる方なのだ。どうしてこの方以上にお前は人を恐れているのか!」というピラトへの最後のメッセージであったかもしれない。
まことの神を知る私たちは、本当に目指すべきところは、天の御国に入るべく、人の声やこの世の権威に惑わされることなく、本当に聞くべき神の声、本当に従うべき神の権威に従って歩んでいきたい。
世にあっては苦難があります。
しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。
(ヨハネの福音書 16章 33節)
(使徒の働き 23章6-11節より)
最高法院で弁明をすることになったパウロが、「私は死者の復活という望みのことで、さばきを受けているのです」と話すと、復活のことでサドカイ人と対立していたパリサイ人はパウロを擁護するものも出てきて、議会はさらに紛糾し、収集がつかなくなった。復活の主に出会い回心したパウロにとって、復活こそが信仰の中心であった。
その夜、神はパウロに「勇気を出しなさい」と励ましの言葉をかける。神は聖徒の傍らに立ち、その都度必要なことばを与えてくださる。死と世に打ち勝ったお方のこのことばにあって、私たちはどこにあっても勇気を出して主を証しする者となっていくことができる。
あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。
(ローマ人への手紙 12章 1節)
(創世記28章1-9節より)
イサクは息子ヤコブを呼び寄せ、彼を祝福し、「カナンの娘たちの中から妻を迎えてはならない」と、一族の信仰を純粋に保っていくことを彼に命じた。神のことばを無視してエサウに祝福を継がせようとしたことによって家庭に亀裂を生じさせてしまったこと、またエサウがその土地の異教徒の女性と結婚したことによるトラブルが反省材料ともなったのであろう。一方エサウは父からの祝福とともにその愛を失ったと考えたのか、父の機嫌を取るためにアブラハムが女奴隷に産ませたイシュマエルの娘と結婚する。イシュマエルという名は「神は聞いてくださる」の意。神は私たちの嘆き、悲しみの声を聞いてくださる。私たち人間の行為ではなくて、私たちのありのままを神の前に差し出すときに、それが最も神に喜ばれる供え物となる。それを神がきよめてふさわしく整えてくださる。イサクの家庭同様、私たちも、神の前にいろいろな過ちを繰り返しながら信仰を学び、神の恵みと憐れみを深く知っていく。それが信仰の歩みだといえる。
ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを素直に受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。
(ヤコブの手紙 1章 21節)
(ガラテヤ人への手紙5章7-10節より)
パウロは、自らの宣教によって回心したガラテヤ教会の信徒を「よく走っていた」(7)と、その熱心さを称えているが、彼らが真理に従わないように邪魔をした者があったことに対し、憤りをあらわにしている。
いつの世もキリスト者の足元を救おうとする者があるが、その背後には悪魔、サタンという霊的な存在の力がある。サタンは何とか神のことばから私たちの目を逸らそうとするが、「わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませる」(9)と、わずかでも不純な教えを許すならば、個人の信仰生活も、教会も倒れてしまう危険性がある。マラソン競技においていくら一生懸命走ってもコースを間違えたら失格となるように、イエス・キリストとその言葉からはずれていくのなら、その者は天国に行くことはできない。「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです」(ペテロの手紙第一 2章 2節)とあるように、私たちはいつも純粋なみことばの糧によってまっすぐに成長し、御国にゴールインすることを求めていきたい。
試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。
(ペテロの手紙第一1章7節より)
(ペテロの手紙第一1章 1-7節より)
迫害により自らも投獄された経験を持つペテロは、各地に散らされているクリスチャンに向けて励ましの手紙を書いている。キリストのゆえに苦しみに遭うということは、神に選ばれているということであり、「朽ちることも、汚(けが)れることも、消えて行くこともない資産」が、「天に蓄えられて」(4)いるという希望がある。だから苦難の中でも私たちは喜ぶことができる。また、「試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価」(7)であると語る。神のひとり子キリストがいのちを犠牲にして私たちに与えてくださった信仰。これ以上に尊いものはない。この信仰によって新しい年も歩んでいきたい。
来て見よ。主のみわざを。主は地で恐るべきことをなされた。(詩篇 46篇 8節)
(ルカの福音書 2章15〜20節より)
天使から救い主の誕生を知らされた羊飼いたちは、すぐさまその幼子キリストを探しに出かけた。そして飼葉桶に寝ているというしるしをたよりに、ついに探し当て、天使たちに告げられたことを話すと、そこにいた皆は驚き、マリアはすべてのことを思い巡らしていた。羊飼いたちは神をあがめ、賛美しながら帰途につく。
信仰はまず福音を聞くことから始まり、そこから神を探し求め、祈りつつ神のことばである聖書を読んでいく中で、キリストを見出していく。そしてキリストと人格的な交わりを通して深く神を知り、神のことばを思い巡らしていくことで、私たちはみことばに生きる者、神を賛美する者となるのである。
福音は喜びの知らせ。新しい年をこの福音に生きる年としていきたい。
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(ヨハネの福音書 1章 14節)
(ルカの福音書 2章8-14節より)
ベツレヘム郊外の野原で野宿で夜番をしている羊飼いたちのところに天使が現れ、彼らは天の栄光に照らされた。当時は社会的に低辺にいたといわれる名も無い彼らであったが、「低い者を高く引き上げられ(ルカの福音書1章52節)る神に選ばれ、一番初めに救世主誕生の知らせが告げられた瞬間であった。
「この方こそ主キリストです」(11)と示された方のしるしは、「布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりご」(12)であり、すなわちイエス・キリスト以外には救い主はいないということがはっきりと語られている。
そして羊飼いたちは、御使いと一緒に現れたおびただしい数の天の軍勢による神の賛美を目の当たりにする。
「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」(14)
救い主によって神と人、人と人の間に神の平和が築かれていく「再創造」の始まりである。キリストを心の中心に迎えるならば、キリストの光に照らされ、主の栄光に包まれる歩みがその時から始まるのである。
ことば(キリスト)は人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。
(ヨハネの福音書 1章14節)
(ルカの福音書 2章1-7節より)
ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスによる人口調査が行われ、住民登録のためにヨセフは、聖霊によって身重になっているマリアを連れてナザレからはるばるベツレヘムまで旅をする。
マリアがベツレヘムで出産したことにより、キリストがベツレヘムで生まれるという予言が成就した。あまりに小さい町がキリスト誕生の地として、ナザレというへんぴな村をキリストが育つ村として神は用いられた。自らを神の前に取るに足りない者だと認めるものに神は目を留め用いてくださる。
そしてキリストは地上のどの王よりも勝ったまことの王として生まれたにもかかわらず、この幼子は王宮のベビーベッドではなく、臭くて汚い家畜小屋の飼葉桶に寝かされた。わたしの居場所はここだとばかり、キリストは罪で汚れた私たちのうちにいてくださり、私たちが直面する現実に共に住んでくださる。救いの神キリストが私たちとともにいてくださるとはなんという恵みであろうか。
あなたの神、主はあわれみ深い神であり、あなたを捨てず、あなたを滅ぼさず、あなたの父祖たちに誓った契約を忘れないからである。(申命記 4章 31節)
(ルカの福音書1:45-55より)
天使からの「受胎告知」を受けたマリアは親類のエリサベツのもとに駆けつけ、そこで主のみわざをほめたたえた賛美の言葉が「マリアの賛歌」として語り継がれている。マリアは「卑しいはしために目を留めてくださった」(48)ことへの感謝を述べる。「主の目は主を恐れる者に注がれる」(詩篇33篇18節)とあるように、自分は神様の前に取るに足りない、主のあわれみを乞うことしかできない者である、と認める者にこそ主は目を留め、さらに主のあわれみは、代々にわたって主を恐れる者に及ぶのである(ルカの福音書1章50節)。アドベントのこの時、このマリアの賛歌のことばを味わiい、神様のあわれみの深さに感謝するときとしたい。
神にとって不可能なことは何もありません。
(ルカの福音書1章37節)
(ルカの福音書1章26節~37節より)
御使いが乙女マリアにキリストを懐妊するという神の預言を伝えにやってきた「受胎告知」の場面。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます」という言葉に戸惑っているマリアに御使いは「あなたは神から恵みを受けたのです」と励ましを与える。全人類の救い主を胎に宿すというこの大任をマリアはどのようにして受け止めることができたのであろうか。いいなずけのヨセフとはまだ一緒にならない時だったので、どのように懐妊するのかを尋ねると御使いは「聖霊があなたの上に臨み」と、人間の肉によってではなく神の御力によってこのみわざが進められること、さらに
「神にとって不可能なことは何もありません」と神が全知全能であることを語る。
神は自ら私たち人間に近づいてくださり、計り知れない神の御力をもってみわざをなしてくださる。その権能の前に私たちは恐れ畏み、ひれ伏すのみである。主がともにおられること、主が恵みを注いてくださること、主の御霊の力によって私たちは励まされ続けている。主のみわざを思い巡らしつつこの時を過ごしたい。
しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない。(イザヤ書 40章 31節)
(詩篇33篇16〜22節より)
一刻の王であるダビデは、「王は軍勢の大きさでは救われない」(16)と、いくら軍事力を強固にしても、絶対的な頼りにはならない不安を神に吐露している。神の前に弱さをさらけ出している姿は、私たちに信仰者のあり方を教えている。神の前にありのままの自分を正直に見せてこそ、そこに神の御手が働かれる。そしてダビデは、どんな時にも神様の目は確かに「主を恐れる者」「主の恵みを待ち望む者」に(18)注がれていること、そのたましいを救い出してくださることを確信している。だから「私たちのたましいは主を待ち望む」(20)。信仰とは主を待ち望むことである。主を待ち望みつつ、天を目指してこの地上を歩む、それが私たちの信仰の歩みなのである。
その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」(ヨハネの福音書 1章29節)
(ヨハネの福音書 18章38節〜19:章8節より)
イエス様のうちに罪を見いだせないでいたピラトは、イエス様をむちでうち叩き、ローマ兵にあざけられるままにし、それから群衆の前に立たせて、こう言った。「見よ、この人だ。」ここまでボロボロにされた姿を見れば群衆の気持ちが落ち着くのではないかとピラトは期待したのだが、群衆は「十字架につけろ」と叫び続ける。イエス様のうちに神の存在を感じ取っていたピラトは、死刑判決を下すことになれば天からの災が降るのではと恐れていたのである。
私たちはこのお方を見る時に、自らを神の子羊として献げ、人類の贖いを成し遂げてくださったみわざを思う。そしてそのイエス様による救いを信じたならば、また「見よ、すべてが新しくなりました。」(コリント人への手紙第二 5章 17節)と、今度は自分が新しくなったことを見るのである。
いつもこのお方を見上げつつ、新しくされながら歩みたい。
さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。
(ヘブル人への手紙
4章 14節)
(使徒22章3〜-23章5節)
ローマ人の千人隊長は、パウロがなぜユダヤ人たちに訴えられているのか、最高法院の場で明らかにしようとする。「私は今日まで、あくまでも健全な良心にしたがって、神の前に生きてきました」(1)と、キリストを宣教しているのははあくまでも神のみこころであるというパウロの発言に、この騒動の元凶とも言える大祭司であるアナニアは激怒し、彼の口を打ち叩いてでも黙らせようとするが、パウロは「白く塗った壁よ、神があなたを打たれる」(3)と、大祭司という職務にその中身が伴っていないアナニアを痛烈に批判する。
まさか彼が大祭司であろうとは思いもよらなかったと皮肉を言いながらも、パウロの心はまことの大祭司イエス・キリストのことを思っていたのではないだろうか。キリストはそのいのちを捨てて、まことのいけにえを神の前に献げ、人類救済の完全な贖いのわざを成し遂げられた。神と人類との間を取り持つ完全な大祭司キリストが、今も私たちに寄り添い、折にかなった助けを与えてくださることは何と心強いことであろうか。
このまことの大祭司キリストにあって大胆に恵みの御座に近づくことができる私たちは、いつどこにあっても大胆に信仰を告白する者でありたい。
人の心には多くの思いがある。しかし、主の計画こそが実現する。
(箴言 19章 21節)
(創世記27章41-46節より)
よく気が利き、何かとよく働く「ちゃきちゃきした」女性リベカは、イサクと結婚し、エサウとヤコブの双子を産む。「兄が弟に仕える」という神の預言のことばを無視してエサウに祝福を受け継がせようとするイサクから、ヤコブをそそのかし、祝福を奪い返させる。リベカは、エサウの復習から身を守るため、兄ラバンのもとに身を隠すようにヤコブに促す。一方イサクには、ヤコブがエサウのようにヒッタイト人を妻にして一族の信仰を汚すことがないようにと訴えると、イサクはヤコブに身を隠すように言いつける。
もとはと言えばアブラハムが一族が信仰を聖く守り通すことを願い、息子イサクに故郷から呼び寄せたリベカは兄とともに神のみこころを第一にする女性だった。神のみこころを阻むものがあるとじっとしていられない性分であった。その行動がすべて正しかったかどうかはともかく、神はリベカを通してご計画を進められた。
不完全な私たちの足りなさや過ちさえも凌駕して、必ずそのみこころをなしてくださる神を見上げつつ、私たちは平安のうちを歩むことができる。
私たちは、義とされる望みの実現を、信仰により、御霊によって待ち望んでいるのですから。(ガラテヤ人への手紙 5章5節)
(ガラテヤ人への手紙 5章2-6節より)
異邦人が救われるためには割礼を受けることが必要だと説く人々に対し、パウロはその教えを強く否定する。
割礼という肉体のしるしを救いの条件とするということは、肉の行いによって自らの義を達成するという意思表明であり、キリストのあがないのみわざを不必要とすること。しかし、人は自らの力で神の前に義となることなどはできない。パウロは「人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められる」(ローマ人への手紙 3章 28節)と、人は、「肉」「行い」ではなく、「御霊」「信仰」によって義と認められると語る。必要なのは、肉の印ではなく御霊による証印なのである。
私たちが義とされる望みは「信仰により、御霊によって」(5)実現されることを心に刻み、キリストの愛と恵みから落ちないようにしたい。
まことに主のことばは真っ直ぐでそのみわざはことごとく真実である。
(詩篇33篇4節)
(詩篇33篇8-15節より)
ダビデは、詩篇33篇を主への賛美の言葉で始めているが、そのあとの4節からは、なぜ主は賛美されるべきお方なのか、主はどういうお方なのかについて述べている。
「主のことばは真っ直ぐでそのみわざはことごとく真実」と、神のことばとみわざは正しくで嘘偽りがないがなく、そのことばとなすことはまったく一致している。神様のことばはすなわちみわざとなるのである。
さらに、主は「正義と公正」で「恵み」に満ちていると、相反するような言葉が並べられているが、神は、神の前に罪を犯しさばかれるべき人類をひとり子を身代わりに犠牲にして人類を救済するというご計画を実行なさった。まさに神の義と愛がキリストの十字架においてあらわされたのである。
天地万物を造り、人類救済のみわざを行い、揺るがない霊を私たちのうちに新しくしてくださるこの神が、今、私たちとともに歩んでくださること、それこそが驚くべき神の恵みではないだろうか。
わたしは、真理について証しするために生まれ、そのために世に来ました。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。
(ヨハネ書18章37節)
(ヨハネの福音書18章33〜38節より)
ポンテオ・ピラトとイエス様が対峙している場面。イエス様はカエサルに反逆して自分がローマ帝国の王になろうとしているというユダヤ人の告発について、ピラトは真偽を問いただそうとする。「ユダヤ人の王なのか」という問いに、イエス様は「わたしの国はこの世のものではありません」(36)と、キリストの国は汚れたこの世に属したりこの世に支配されるものではないと答える。「わたしは、真理について証しするために生まれ、…真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います」(37)というイエス様の言葉を理解できず困惑したピラトは、「真理とは何なのか」(38)と言って、それ以上追求することをやめてしまう。
神のことばである聖書を読むことができ、神の家である教会に集うことができる私たちは、真理とは何か、真理は自分にとって何なのか、この問から逃げずに求め続け、真理のうちにとどまり続けて歩んでいきたい。
しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。(ピリピ人への手紙 3章 20節)
(使徒22章22-29節より)
固唾をのんでパウロの弁明を聞いていたユダヤ人たちだが、神がパウロを選び、ユダヤ人のもとを離れさせ、異邦人のもとに遣わしたという内容に激昂し、パウロをすぐにでも亡き者とするようにわめきたてた。選民としての特権意識を持っていたユダヤ人たちに異邦人に対しての嫉妬心を燃え立たせ、神に立ち返らせるという神様のご計画がそこにはあった。パウロを取り調べるためにむちを打とうとしたローマ兵に対し、自分は生まれながらにローマ市民権を持っていることを告げると、彼らは尻込みしてしまう。
ユダヤ人でありローマ市民という特権階級にあったパウロだが、真の国籍は天にあると語っている。キリストにあって私たちは、神の子というこれ以上ない特権が与えられ、天のあらゆる霊的な祝福を頂くことができる。その代価はキリストがいのちをもって支払ってくださった。
キリストを信じ、新しく生まれ、生まれながらの天国の市民権を持つものとなった私たちから、何者もこの特権を奪うことはできない。
見よ。なんという幸せなんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになってともに生きることは。
(詩篇 133篇 1節)
(創世記27章38-41節より)
自分から祝福を奪い取った弟ヤコブに対し、エサウは強い殺意を抱くようになる。しかし「兄が弟に仕える」という神のことばをないがしろにしてその祝福を奪い取ろうとしたのはエサウのほうであった。弟に嫉妬してカインは人類最初の殺人者となった。神の呪いは、人を憎み呪うという形になってあらわれる。イエス様の「放蕩息子の例え」で放蕩三昧をして財産を食いつぶして戻ってきた弟を父が歓迎するのを見て嫉妬するという話は、ユダヤ人が異邦人の祝福に嫉妬して神のもとに立ち返るという神のご計画の例えでもある。
すべての者が一つになってともに生きることが、神のみこころであり、それこそが祝福に満ちた麗しい生き方。教会にあって主にある兄弟姉妹が一つになり、この地に平和が訪れるように祈っていきたい。
キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。
(ガラテヤ人への手紙 5章 1節)
(ガラテヤ4章26節-5章1節より)
パウロは、アブラハムが女奴隷ハガルに産ませたイシュマエルと、神の約束によって妻サラから生まれたイサクを引き合いに出して、ガラテヤ教会の人々に語る。「私たちは女奴隷の子どもではなく、自由の女の子どもです」(31)と、救いは、人間の肉の思いや努力によって得るものではなく、神が人を愛するがゆえに用意された救い主キリストを信じることによって与えられるものだと説く。
ガラテヤ人への手紙のテーマは「自由」。「聖書は何と言っていますか」(30)というパウロの言葉のように、いつも聖書に確認しつつ、キリストこそが私たちに自由を得させてくださるお方であることを信じ、歩んでいきたい。
詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、
主に向かって心から賛美し、歌いなさい。
(エペソ人への手紙 5章 19節)
(詩篇 33篇1-7節より)
「正しい者たち主を喜び歌え。賛美は直ぐな人たちにふさわしい」(1)と、この詩篇の冒頭の部分で作者のダビデは神への賛美について語っている。「正しい者」「直ぐな人」とは、神との関係において正しい者、神に造られた者、神に贖われた罪人であるという自覚を持って神に従い歩む者である。「竪琴に合わせて」「十弦の琴に合わせて」(2)とあるように、ここでは兄弟姉妹と調子を合わせ、声を合わせて賛美をすることに意味があることが語られている。私たちは、主によって新しく生まれた者としての「新しい歌」(3)を歌う者と造り変えられている。麗しい賛美が響く教会でありたい。
あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。
(ルカの福音書 4章 21節)
(ヨハネの福音書 18章28-32節より)
ユダヤ人から遣わされた下役たちは、捕縛したイエス様を大祭司カヤパの官邸から総督ポンテオ・ピラトの官邸へと連行していく。死刑に値する罪人だとイエス様を訴える彼らに対し、ピラトは、宗教的なことであれば、自分たちで解決するように言うが、彼らは「私たちは死刑にすることを許されていない」とあくまでもピラトの判決を求めた。これは、「 祭司長たちや律法学者たちに引き渡されること、異邦人に引き渡され、十字架につけられる」というイエス様のことばが成就するためだと聖書は記している。
モーセが荒野で掲げた青銅の蛇を仰ぎ見た者は生きたように、十字架に掲げられたイエス様を仰ぎ見る者はサタンの化身である蛇がもたらした罪から開放される。そして地上から上げられたイエス様はすべての人を身許に招く。spの招きに応えるとき、みことばは私たちのうちに実現し、神のみこころが成っていく。祈り心をもって聖書を読み、神の招きの声を聞いていきたい。
「パウロの召命」
神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自分の計画と恵みによるものでした。
(テモテへの手紙第二 1章 9節)
(使徒の働き 22章 17-21節より)
パウロを糾弾しよとするユダヤ人たちを前に、パウロは弁明という名の説教・あかしを語る。
祈りの中でパウロは、神様からすぐにエルサレムを離れるように指示され、異邦人伝道への召命が与えられた。かつてキリストの教えを迫害していた者であったというパウロの過去が宣教の妨げになっていたこと、またユダヤ人を裏切ったことでいのちを狙われていたという状況がそこにはあった。神様はパウロのすべてを知っておられ、パウロを身許に召し、パウロに寄り添った形で新しい召命を与えた。
神様は私たちの弱さ、汚れ、罪を知りながらも愛し、キリストによってきよめてくださる。そして神が私たちに寄り添いながら、その権威によって召命を与えてくださる。この召命に忠実に誠実に従っていきたい。
私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
(エペソ人への手紙 1章 3節)
(創世記27章33-38節より)
自分が受けるべき父親からの祝福を、弟ヤコブが先に来て奪い取ってしまったことを知ったエサウの怒りは頂点に達する。同時に、かつてスープ一杯で長子の権利を弟に売り渡したことを思い出し、後悔する。
家族それぞれの思惑が渦巻く中で、結局は「兄が弟に仕える」という神の言葉が実現することになった。私たちは目の前の出来事に振り回されることなく、神のみこころが成ることを信じて平安のうちを歩むことができる。
キリストを信じない者は、人知で計り知ることのできないほど豊かな「天上にあるすべての霊的祝福」を相続できないばかりか、御国に入れずに後悔の涙を流すことになる。
だから私たちはこの一つの祝福を、一つの福音であるイエスの救いを宣べ伝えるのである。
あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。
(ヨハネの福音書 8章 32節)
(ガラテヤ人への手紙4章19-26節より)
パウロは、人が救われるためにはキリストを信じるだけでなく律法を守り行うことが必要だと説く人々に対して、「あなたがたは律法の言うことを聞かないのですか」(21)と、律法のうわだけを行うだけでその心を理解しない彼らの態度を批判する。
そして、アブラハムの二人の息子を例に上げ、律法に縛られている者を肉によって生まれた女奴隷ハガルから生まれた子に、キリストによって律法から開放された者を約束によってサラから生まれたイサクになぞらえる。
人間が自分の努力によって神の前にきよくなれるという思いは傲慢でしかない。律法を成就するためにこの世に来られたキリストによって、私たちは天からの自由が与えられている。このまことの福音に私たちは歩んでいく。
主の道はみな恵みとまことです。
主の契約とさとしを守る者には。
(詩篇 25篇 10節)
(詩篇 32篇 8-11節より)
この詩には「教え」「訓戒」という意味であろうとされる「マスキール」という副題が添えられているが、この箇所は、私たちの人生の道とはどういうものかということを教えている。
「あなたが行く道であなたを教えあなたを諭そう」(8)とあるように、私たちの道は、主が示し、教え諭してくださる道である。それは私たちにとっては最短であり楽な道であるとは限らないが、その道を通してでしか体験できないところを通すことで神は私たちを教えようとなさる。「分別のない馬やらばのようであってはならない」(9)と、愛と信頼をもって主のことばに聞き従っていく関係性について語られている。
主を信じる「私たちの道」は、「主の道」であるといえる。主がその御力をもって私たちの道を備えられることを信じ、主の恵みとまことに感謝しつつ、この喜びの道を歩んでいきたい。
私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。
(ピリピ人への手紙 1章 21節)
(ヨハネの福音書18章 16-18節より)
イエス様が捕らえられた時、官邸の庭で遠くから成り行きを見守っていたペテロだが、イエスの弟子であることを問われて3度も否定する。イエス様との関わりを認めれば、自分も同じように捕らえられ殺されることを恐れてのことであったが、その時に鳴いた鶏の声を聞き、「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います」(ヨハネの福音書 13章 38節)というイエス様のことばを思い出し激しく泣く。
神を知らなかった私たちに、神様のほうからいのちを捨て、関わりを持とうとしてくださった──そこの神の愛が示されている。キリストは自分のいのちそのものだとあかししているパウロは、キリスト同様に迫害を受けたが、それ以上の祝福を受け取っている。
私たちは自分とキリストの関係をどのように告白するだろうか。
ですから、信仰は聞くことから始まります。
聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。
ローマ人への手紙 10章 17節
(使徒の働き22章 12-16節より)
パウロが、自分を殺そうとしているユダヤ人たちに対し、弁明の機会を得て説教をしている場面。
神の声に聞き従いダマスコのユダの家にいたパウロのもとに、アナニアが尋ねてくる。アナニアも、迫害者のもとに行くことには恐れがあったものの、神の声に聞き従ってパウロのもとを訪れ、パウロの頭に手をおいて祈る。その時、まるでパウロが神の恵みによって霊の目が開かれたことを象徴するかのように、彼の目が見えるようになった。迫害者パウロはこの時から宣教者へと変えられたことは、宣教の歴史に大きな意味を持つ出来事となった。
私たちが霊の目をすませて聖書を読み、自分の計画よりも神の御声(みことば)に聞き従うときに、そこに神の大いなるみわざがあらわされ、私たちは神の栄光をあらわすことができる。
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。
(ヨハネの手紙第一 4章9節)
(創世記27章24-32節より)
ヤコブは兄エサウに変装して父イサクを騙し、兄からまんまと祝福を奪い取ることに成功する。
この出来事を通して私たちは、キリストの犠牲をそこに見ることができる。神のひとり子キリストは私たち人間に「わたしから祝福を奪い取れ」と言わんばかりに、自分から十字架に向かい、罪人の私たちの身代わりとなって殺され、神に呪われ、よみにまで下ってくださった。そしてキリストを着る者すなわち信じる者が神の子どもとして、神のすべての祝福を得るようにしてくださった。ここに神の愛がある。
愛する者のために犠牲となったキリストの愛の香りを神が喜ばれたように、私たちもキリストの香りを放ち神に喜ばれる者とならせていただきたい。
ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。
(コリント人への手紙第一
15章 10節)
(ガラテヤ人への手紙
4章12-18より)
パウロは、真の福音から離れ律法主義に逆戻りしようとしているガラテヤ教会の人々に、「あなたがたも私のようになってください」と語る。厳格なユダヤ教徒であったパウロがキリストに出会って律法から開放されたように、あなたがたも自由になってほしいという願いからの訴えであったことだろう。
自分を「ほんとうにみじめな人間」であり「罪人のかしら」であると自覚していたパウロは、キリストに出会ったことで、キリストのしもべとして変えられた。そして、すべての人のしもべとなりそのいのちをささげキリストの御霊によって、パウロはすべての人に仕える者となった。
自分が神の恵みによって変えられたように「あなたも私のようになってください」というこのパウロのこの願いは、同時に神が私たちに求める願いなのである。
あなたは私の隠れ場。
あなたは苦しみから私を守り
救いの歓声で私を囲んでくださいます。
(詩篇
32篇7節)
(詩篇32篇
1-7節より)
「マスキール」と記されたこの言葉は定かではないが「教え」という意味ではないかと言われている。そして冒頭で「幸いなことよ」と始めるこの詩篇において、ダビデは人間の幸いとは何かということについて語る。
この世で一般的に幸せとは、健康であり裕福であり名誉を得たりすることなどと言われるが、ここでは、「背きを赦され罪をおおわれ」「主が咎をお認めにならずその霊に欺きがない」という、神の前に義と認められることこそが真の幸いであると言われている。
ダビデは自分の罪の大きさに苛まれるが、その罪を主に告白したときに主の赦しを体験し、祈る者となった。そして主のもとこそがたましいの隠れ場であり救いの歓声が満ちているところであることを知る。
私たちもこのまことの幸いのうちを歩んでいきたい。
あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。
(マタイの福音書 5章
14節)
(ヨハネの福音書18章19-24節より)
弟子のイスカリオテのユダの裏切りにより、ユダヤ人たちに引き渡され、大祭司の前に引き出されたイエス・キリスト。弟子たちや教えについて尋問されると、毅然として、自分はどこにおいても隠れずに公然と話したのだから、自分に聞くまでもなく誰に尋ねてもそれは明らかであると答えた。
私たちはどれだけキリストの教えを公然と語っているだろうか。「彼らが聞いても、聞かなくても、『神である主はこう言われる』と彼らに言え」(エゼキエル書
3章 11節)とあるように、その時代や社会に関わりなく、主のみ旨をはっきりと語るイエス様の御霊が主を信じる私たちに与えられている。
キリストは私たちを「世の光」であると言われた。私たちは、ご自身こそが「世の光」であるとキリストのみそばにいることでその光を反射させてこの世で輝くことができる。小さくても、キリストの光を指し示す私たちの灯火の光には、闇は打ち勝つことはできない。
わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。(ヨハネの福音書 8章 12節)
(使徒の働き 22章1-11節より)
暴動まで起こして自分を捕らえ殺そうとするユダヤ人にとり囲まれたパウロだが、騒ぎを収めに来た千人隊長から弁明の機会を得て、群衆に向けて話し出す。このような危機的な状況の中でも、「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても」(テモテへの手紙第二 4章 2節)ということば通り、彼は逆境の中にあってもそれをキリストを証しする好機として用いたのである。
厳格なユダヤ教徒として最高の教育を受け、クリスチャンを異端として排除していたが、ある時復活の主の光に包まれ、主の声を聞いたと証しする。パウロは、メシア=救い主として聖書が預言していたのはイエス・キリストであったことを知り、宣教師として生まれ変わった。
聖書の知識をどんなに蓄えても、そのたましいがキリストの光に照らされない限り、人はまことの神を知ることができない。そして神の光は、どんなに暗い人生をも照らし、そこから新しく生まれ変わる力を与える。いつでもそのことを証しできる者でありたい。
ふさわしい者として
そうなるのにふさわしく私たちを整えてくださったのは、神です。
神はその保証として御霊を下さいました。
(コリント人への手紙第二 5章 5節)
(創世記27章 14-24節より)
イサクが自らの生涯の最後を悟り、双子の息子の兄のほうのエサウに神の祝福を相続しようとするが、妻リベカは弟のほうのヤコブに奪い取らせようと画策し、ヤコブにエサウの変装をさせる。ほとんど目が見えなくなっていたイサクは、部屋に入ってきたのがエサウであることを確かめるためにヤコブに触るが、毛皮を巻きつけて毛深いエサウのようにしていたために、ついにだまされてしまう。
「主イエス・キリストを着なさい」(ローマ人への手紙 13章 14節)とあるように、キリストを信じることで、私たちは聖なる神の子どもとしての衣をまとう。神は私たちを子どもとして迎え、財産を相続なさる。
そしてこの衣は、「栄光から栄光へと、主と同じかたちに」(コリント人への手紙第二 3章 18節)私たちの内面を新しく造り変える衣。ふさわしくない者をふさわしい者へと変えるのが福音の力なのである。
御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。(ローマ8:16)
(ガラテヤ人への手紙4章1-11節より)
パウロはここで神の相続人について語っている。親の財産を子どもが受け継ぐのと同様に、神の子どもとなる者が神の財産を相続することができる。
アブラハムが信仰によって義と認められ神に祝福されたように、キリストを信じることによってのみ人は神の子どもとなることができる。主を信じる者にはキリストの御霊が与えられ、キリストと同じ神の子どもという立場が与えられ、「アバ、父よ」と呼ぶことができる。「子であれば、神による相続人です」(7)とあるように、神が蓄え備えておられるいつくしみ、天のあらゆる祝福を相続できるとはなんという恵みであろうか
なんと大きいのでしょう。あなたのいつくしみは。あなたを恐れる者のためにあなたはそれを蓄えあなたに身を避ける者のために人の子らの目の前でそれを備えられました。(詩篇31篇19節)
敵から嘲りやさげすみの言葉を浴びて悔しい思いの中にあるダビデだが、「復讐と報復はわたしのもの」(申命記 32章 35節)とあるように、敵と同じ土俵には上がらずに、彼はその思いを神に吐露している。敵国が何よりも恐れていたのは、イスラエルの軍事力よりもダビデが信じている神の御力ではなかったのではないだろうか。敵に四方を取り囲まれていても天は空いている。そこに神の臨在を見ることができる。だからダビデは「私の頭は私を取り囲む敵の上に高く上げられる」(詩篇 27篇 6節)と神をほめ称えている。
「主はわが巌 わが砦わ が救い主 身を避けるわが岩わが神。わが盾わが救いの角わがやぐら」(詩篇 18篇 2節)。主こそが私たちを守る堅固なるお方。この神という砦には、神のあふれるほどのいつくしみが蓄えられ備えられている。だから何があっても私たちは、主にあって満ち足りていることができ、雄々しく心を強く保つことができるのだ。
私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
(コリント人への手紙第二 3章18節)
(コリント人への手紙 第一15章42-49節より)
「死者の復活などあり得ない」と説く者たちによって混乱したコリント教会に対しパウロは、もしキリストがよみがえらなかったとしたら信仰は空しく、キリストは眠った者の初穂として死者の中からよみがえったと語る。
パウロは、アダムの子孫として生まれた者は血肉に属し、土で造られた人のかたちを持ったままだが、「第二のアダム」であるキリストを信じる者は、天に属する方(キリスト)のかたちも持ち、御霊に属するからだによみがえらされると説く。人は神に似せて造られたのに、罪を犯しそのかたちを損ねたのだが、御霊によって再創造がもたらされるのだ。御霊によって私たちは主の栄光を輝かせ、主と同じかたちに姿を変えられていくとは何と驚くべきことであろう。土くれで作られた私たちのうちに御霊が宿っているならば、計り知れない神のみわざがなされ、そこに神の栄光があらわされる。
さあ、私たちも主の光のうちを歩もう。(イザヤ書 2章 5節)
(ヨハネの福音書 18章8-18節より)
イエス様と弟子たちが兵士たちに取り囲まれたとき、ペテロは剣を取って大祭司のしもべに斬りかかり、彼の耳を斬り落とした。イエス様は、剣をさやに収めるようにペテロを制する。神のひとり子が彼らに捕らえられ人の罪を負って死刑に処せられることが、父なる神が用意なさった人類の贖いの計画であったからである。
かつてイエス様が弟子たちにご自身の地上での最後の受難について話された時、「そんなことが起こるはずがない」というペテロの言葉に「下がれ、サタン!」を厳しく叱責なさったのは、神のみこころを邪魔するならばそれはサタンと同じ行為だからである。
捕らえられたイエス様の成り行きを見守ろうと官邸の庭に入ったペテロは、イエス様の弟子であることを否定し、イエス様を否定する者たちと一緒に暖を取っていた。この世に合わせてぬくぬくと過ごすという安泰は永遠のものではない。しかし神は、私たちの暗い心を、この世を、まことの光で照らしてくださり、閉ざされた私たちのたましいを開放し温めてくださる。今こそ、神様の光のうちを歩むように、神様は招いてくださっている。
母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰める。(イザヤ書 66章 13節)
(イザヤ書 66章 8-14節より)
バビロン捕囚などで苦しめられ傷ついた民に、神は希望のメッセージをイザヤに語る。
「シオンは、産みの苦しみと同時に子たちを産む」(8)。シオンは神の臨在がある場所の象徴であり、そこで人は神に触れられ、神を信じ、一瞬にして真の神の民として生まれ変わる。「エルサレムとともに喜べ」(10)。このエルサレムは教会と捉えることができる。一人の人が救われるとき、教会に、そして天上にも喜びが湧き上がる。「わたしは川のように繁栄を彼女に与え、あふれる流れのように国々の栄光を与える」(12)。この「繁栄」はシャロームという語で、神の懐において私たちは真の「平安」「平和」に満たされることができる。神の愛は母親の愛に例えられることがあるが、人間の母親以上に完全な愛をもって神は私たちを愛し、完全な慰めを与えてくださる。
母親の胎から人間として生まれ出て、神の霊によって新しく生まれ神の子どもとされることを感謝しつつ歩みたい。
イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
(マタイの福音書 16章 15節)
(使徒の働き 21章27-40節より)
宣教旅行からエルサレムに戻ってきたパウロを出迎えたのは、ユダヤ人による迫害であった。彼らはいわれのないデマを流し群衆を扇動し、パウロを捕らえ殺そうとしていたのである。パウロを取り囲み糾弾する群衆によって街中が大騒ぎになったが、暴動の知らせを受けた千人隊長が現場に出向きパウロの身柄を確保する。パウロは、自分はれっきとしたローマ市民であることを明かし弁明の機会を求めると、千人隊長はそれを許可する。
キリストは、「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです」(マタイの福音書 5章 11節)と、迫害の中にあるクリスチャンを励ましてくださっている。迫害はクリスチャンであることの証明のようなものだと言われることがあるが、天での報いが大きいことが主によって語られている。千人隊長はパウロに何者なのかと訪ねたが、キリストは、「あなたはわたしをだれだと言うのか」と、神の前に私たちが自分の言葉で信仰告白をすることを迫っておられる。そして世の人々が私たちのうちに生きるキリストを見ることがあるならば、それこそが私たちの証しとなっていくのである。
やめよ。知れ。わたしこそ神。
(詩篇 46篇 10節)
(創世記 27章1-13節より)
年老いて死期が近づいていることを悟ったイサクは、双子の息子の兄エサウに神の祝福を継がせようと、その儀式のためのご馳走の獲物をしとめて料理するようにと言いつける。二人の話を聞いていた妻のリベカは、弟のヤコブのほうに祝福をつがせようと、エサウになりすまして父親に料理を持っていくようにとヤコブをけしかける。かつてヤコブは兄を騙すようにして、エサウがその権利の価値を侮っていた長子の権利を奪ったこともあり、この兄弟の確執はさらに深まっていく。
この4人は「兄が弟に仕える」という神のことばをどれほど重く受け止めていたのだろうか。人間は思惑どおりに事が運ぶようにいろいろな策略をめぐらすが、しかしそんなものには関係なく絶対的な権威者神は、神のはかりごとを進めていく。信仰によって救われ、永遠のいのちという祝福を得るという、変わることのない神の計らいを感謝しつつ受け止めていきたい。
主イエス・キリストを着なさい。
(ローマ人への手紙 13章 14節)
(ガラテヤ人への手紙3章 23-29節より)
救われるためにはキリストを信じだけでなく律法を守り行うことが必要であると説く者によってガラテヤ教会は混乱していた。そんな彼らにパウロは、「律法は私たちをキリストに導く養育係」であり、「私たちが信仰によって義と認められる」(24)と、律法の役割と、信仰義認についてはっきりと示す。
いにしえに、人は信仰によって義と認められ神の祝福を相続するという契約をアブラハムと結ばれたその神様の約束のことばは、とこしえに変わることがない。
「キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです」(27)とあるように、主を信じる者はキリストと同じく神の子どもという特権を与えられる。そして神は、その永遠の衣服=キリストにふさわしい者として、私たちを整えてくださる。
私の時は御手の中にあります。私を救い出してください。敵の手から追い迫る者の手から。
(詩篇31篇15節)
(詩篇31篇15〜16節より)
ダビデは、「私をあわれんでください。主よ。私は苦しんでいるのです」(9)と、苦悩の中で心身ともに疲れ果てたことを主の前に告白している。神様はこの世での悩み、悲しみ、苦しみの中にある者の声を聞いてくださり、そして「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです」(マタイの福音書 5章 4節)と私たちを励ましてくださる。「私はそしられました。わけても私の隣人から」(11)という言葉はキリストの受難の預言ともいえる。私たちのすべての苦しみをすでに味わってくださったキリストは、私たちに同情してくださるお方。
神の前に弱さを吐露した後にダビデは、「私の時は御手の中にあります。私を救い出してください」(15)と、人智をはるかに超えた神の御手の中に生かされていること、みわざがなされる神の時があるという悟りを語る。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」(伝道者の書 3章 11節)。
私たち主を信じる者の歩みは、ありのままを神の前にさらけ出し、神様の時にかなったみわざを待ち望み続けることなのである。
神は主をよみがえらせましたが、その御力によって私たちも、よみがえらせてくださいます。
(コリント人への手紙第一 6章 14節)
(ヨハネの福音書 6章37〜40節より)
イエス・キリストがよみがえりについて語っている場面。
「わたしが天から下って来たのは、自分の思いを行うためではなく、わたしを遣わされた方のみこころを行うため」(38)と、キリストは父なる神のみこころの遂行のためにこの世に来られたことを語る。そのみこころとは、「わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせること」(39)。キリストの贖いは完全で、主を信じる者は一人として滅ぼされずに、永遠のいのちを持つ。死んでもよみがえらせてくださる。キリストがよみがえってくださったことは、キリストにある私たちが死んでもよみがえるということ保証となる。
私たちがよみがえることが神のみこころであり、またこれが福音の中心であり、聖書が最も伝えたかったメッセージ。だからイースターはクリスマス以上に大切に覚えるべき記念の日だといえる。
「永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい」(ヨハネの福音書6章27節)というキリストのことばのとおり、いのちのパンであるキリストにあって豊かないのちに生きることが、人間にとって一番大事なことなのである。
わたしが「わたしはある」であることを信じなければ、あなたがたは、自分の罪の中で死ぬことになるからです。(ヨハネの福音書 8章 24節)
(ヨハネの福音書18章1-9節より)
イエス様は弟子たちとの最後の晩餐のひとときを過ごした後、弟子たちを連れてゲツセマネの園に行って祈るが、そこに裏切り者のイスカリオテのユダが手引をした大勢の兵士たちが武器をもってやって来た。
イエス様は進み出て、「だれを捜しているのか」と彼らに言われると、彼らは「ナザレ人イエスを」と答えた。イエス様は彼らに「わたしがそれだ」と言われた。ヨハネの福音書に度々登場するこの「わたしがそれだ」ということばは、モーセが神に名前を尋ねたときに、神が明かされた名と同じことば。ここからもイエス様は父なる神と一つであることがわかる。
「だれを捜しているのか」という問い掛けは、すべての人間に対して、真に捜し当てるべきお方、求めるべきお方は誰なのかということを確認させるためのことばともいえる。主を求める者に、主はその御名をあらわしてくださる。絶対者なる神を知り、その御名の前に畏れかしこみ、ひれ伏し、そのみわざのゆえに御名をあがめることが、私たち神に造られた人間の営みなのである。
私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁のように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られる。地を潤す、後の雨のように。(ホセア書 6章 3節)
(ヨハネの福音書17章より)
イエスは十字架にかかる直前、いわゆる最後の晩餐において弟子たちに最後のメッセージを語り、その場にいる弟子たちのために、そして、どの時代のキリスト者のために、とりなしの祈りをする。
「わたしがいるところに、彼らもわたしとともにいるように」(24)と、キリストは私たちをそのみもとに招いてくださる。そこは主がいるところ、そこは、私たちが主の絶対的な権威に身を任せることができ、主のみわざをみることができ、主の栄光を仰ぐことができるところ。「彼らにあなたの御名を知らせ」(26)と、キリストが私たちの霊の目を開き、主の御名を知るようにしてくださった。
「知れ。主こそ神」(詩篇 100篇 3節)とあるように、主を恐れて生きること、主を知るために歩むことこそが人間の営みであり、主を知ることで私たちは天の御国の素晴らしさを味わうことができる。さらに深く主を知ることを切に追い求めて歩みたい。
私は福音のためにあらゆることをしています。私も福音の恵みをともに受ける者となるためです。(コリント人への手紙第一 9章 23節)
第3次宣教旅行を終えてエルサレムに戻ってきたパウロ一行を、教会の柱であったヤコブや長老たちが出迎え、諸教会から託された支援献金を受け取り、宣教報告を聞いて神のみわざをほめたたえた。
その一方でヤコブたちは、ユダヤ人クリスチャンの間で、パウロの教えが律法をないがしろにしているとの噂が広まっていることをヤコブたちはパウロに告げるとともに、今、請願を立てようとしている4人に同行し、その費用を負担することで誤解は解けるのではないかという提案を示す。パウロはいともあっさりとその提案を受け入れ、4人に同行して行った。福音のためには自分のプライドを捨てることを厭わなかったのである。
「人々が救われるために、自分の利益ではなく多くの人々の益を求め、すべてのことですべての人を喜ばせようと努めている」(コリント人への手紙第一 10章33節)と証しするパウロは、「より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷になり」「何とかして、何人かでも救うため」(コリント人への手紙第一 9章 19、22節)と語っている。
そして今、神様は私たちを、福音のために、それぞれのところにおいて生かしてくださっていることを覚えたい。
そこで神は、約束の相続者たちに、ご自分の計画が変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されました。(ヘブル人への手紙 6章17節)
(創世記 26章23-33節より)
イサクは、ベエル・シェバに移り住んだが、そこはかつて父アブラハムが掘った井戸があり、アビメレクと盟約を結んだところである。かつて神がアブラハムに祝福の契約を語ったこの地で、イサクも神の約束の声を聞き、神の祝福を相続したことを確認したイサクは、ここに祭壇を築き神を礼拝する場所とした。
そこへ、アブラハムの時代同様、この時代のアビメレクもイサクの家の勢力を恐れ、平和協定を結ぼうと訪れてきた。かつて彼らによって何度も井戸を埋められたイサクだが、その報復をすることなく、彼らをもてなし、平和の盟約を結ぶ。
これは、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」とイエス様が語ったように、神がご自身に敵対する人間を愛し、尊い犠牲を払って人類に救いの道を用意なさり、人が悔い改めることを待っておられる姿と重なる。
この地は、アブラハムが井戸の所有者であるという証拠として7頭の雌羊をアビメレクに与え盟約を結んだことから、「べエル・シェバ」と名付けられた(「井戸」=ベエル、「7」または「誓い」=シェバ)。
神が人と結ばれた祝福の誓い、平和の契約を覚える場所として、私たちもこの場所を覚えていたい。
しかし聖書は、すべてのものを罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人たちに与えられるためでした。(ガラテヤ人への手紙 3章22節)(ガラテヤ人への手紙 3章18-22節より)
パウロは、「相続がもし律法によるなら、もはやそれは約束によるのではありません。しかし、神は約束を通して、アブラハムに相続の恵みを下さったのです」(18)と、神様が父祖アブラハムに語られた人類への祝福は、律法を守ることによってではなく、信仰によって相続するということを明言する。これは神様の「約束」であり、変わることはない。そして律法は「違反を示すためにつけ加えられたもの」(19)であり、律法と真正面から向き合うことで人は自らの罪深さを知り、キリストにすがるより他に救いの道がないことを悟ることができる。「罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました」(ローマ人への手紙 5章 20)。私たちの罪がどんなに深くても、どんなに汚れていても、キリストの恵みはさらに深く広く大きい。主を信じる者には、消えることのない「イエスの焼き印」(ガラテヤ人への手紙 6章 17節)が押されている。この変わることのない約束の恵みに感謝して歩んでいきたい。
私の霊をあなたの御手にゆだねます。(詩篇31篇5節)
(詩篇31篇5~8節より)
国のトップであり、地位も名誉も権力もほしいままにしていたダビデだが、「私の霊をあなたの御手にゆだねます」と、自分の力には頼らずに、神により頼んでいるという信仰告白をする。移ろいゆく人間の力ではなく、とこしえに変わることのない全知全能の神に委ねることこそが最も安心安全なのだという、宗教的なリーダーでもあった彼の、国民に向けてのメッセージがそこに込められているのかもしれない。
そしてこの言葉は、キリストが十字架の上で叫んだ最後の言葉でもある。この詩篇の言葉が神の贖いのわざの預言となっていて、神の御子キリストが十字架でいのちを捨てたことで成就したということが表されている。
霊を委ねるというは、人間の思いではなく、神のみこころに自分を委ねていくこと。イエス様は「わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください」(マタイの福音書 26章 39節)と父なる神に祈り、十字架に向かって進んでいった。
ダビデが「私の足を広いところに立たせてくださいました」(8)と歌うように、神はご自身に委ねた者を、悪しき者から解放された祝福の場所、神の恵みの場所に導いてくださる。私たちはそこで神の栄光を見ることができることは何と幸いなことであろうか。
あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。
(ガラテヤ人への手紙 3章 28節)
(ヨハネの福音書17章20-23節より)
イエス様が弟子たちへの告別説教の最後に天の父なる神に祈っている場面。「ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします」(20)と、目の前にいる弟子たちだけでなく、主を信じるすべての聖徒のためにとりなしの祈りをしている。
その一番の願いは、「すべての人を一つにしてください」(21)ということであった。「あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです」(ガラテヤ人への手紙 3章 29節)。信仰によって、現代に生きる私たちもアブラハムに語られた祝福の約束を受け継ぐ者であり、人類の歴史において主を信じる者すべてが時空を超えて一つのキリストのからだを形成しているのである。
世の人が私たちのうちにキリストを見出し神をあがめるようになるため、また神の愛を知るようになるため、私たちは一つとされていることは、何と光栄なことであろうか。
主イエスの名のためなら
私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。
(ピリピ人への手紙 1章 21節)
(使徒の働き 21章1-14節より)
第3次宣教旅行を終えて、パウロ一行は帰途についていたが、エルサレムでパウロに起こる悲劇を御霊によって知った者たちが、エルサレムには行かないようにと説得を試みる。しかし、そんな彼らに対して「私は主イエスの名のためなら、エルサレムで縛られるだけでなく、死ぬことも覚悟しています」(13)ときっぱりと言い放ち、エルサレムへと向かっていく。
「私の願いは……生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです(ピリピ人への手紙 1章 20節)」ということばのとおりに、このパウロの宣教によって、現代においても多くの人が神様を知ることができている。パウロのように、自分のいのちよりもキリストのみ旨を第一として歩む人生を送ることができたら何と幸いなことであろうか。
神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに導く、
私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。
(ユダの手紙 1章 21節)
(創世記26章 12-22節より)
主の祝福によってイサクが栄えていくことに嫉妬したペリシテ人は、イサクがこの土地から出ていくようにと、イサクの井戸をすべて埋めてしまうという暴挙に出た。生活の基盤を破壊されたイサクだが、彼らと争うことはせずに別の場所に移住し新たに井戸を掘るのだが、そこでも争いをしかけられ、イサクはそれらの場所を「争いの井戸」「敵意の井戸」などと名付ける。これはイサクが、すべての出来事の上に神の目があり、御手が働かれることを確信していたからこそ、主のみわざを数えるようにマイナスだと思える出来事もあえて覚えておこうとしたのではないだろうか。
やがてイサクは、またそこから移って、もう一つの井戸を掘った。その井戸については争いがなかったので、その名をレホボテ(広い所)と呼び、神の導きを感謝する。
神は私たちを広いところ、祝福の場所に導かれる。そして誰にも奪われることのないいのちの泉であるイエス様がともにいてくださる。この世の諍いに翻弄されることなく、神様の導きに身をゆだねていきたい。
わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、またあなたの後の子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしは、あなたの神、あなたの後の子孫の神となる。(創世記 17章 7節)
(ガラテヤ人への手紙 3章15~18節より)
パウロは「信仰義認」について語っているところで、「人間の契約でも、いったん結ばれたら、だれもそれを無効にしたり、それにつけ加えたりはしません」(15)と、この世のものであっても契約は揺るがないものであるので、神の契約はなおさら確固たるものであることを語る。
そして、神のアブラハムへの祝福の約束について、「あなたの子孫に」と単数形で語った言葉はキリストのことであると説明する。「ちょうど一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、一人の従順によって多くの人が義人とされる」(ローマ人への手紙 5章 19節)とあるように、アダムの罪によって死と呪いが全人類に広がったように、一人のキリストによって神の祝福の契約はすべて主を信じる者にとって有効となるのである。
律法を行うことにはよらず、神は約束を通して、私たちに相続の恵みを下さった。「天上にあるすべての霊的祝福」(エペソ人への手紙 1章 3節)を相続できるという、このとこしえの恵みの契約に感謝しつつ歩んでいきたい。
あなたこそ私の巌 私の砦。(詩篇31篇3節)
(詩篇31篇1〜4節より)
国が危機に瀕しているときに、国民の士気を高めるために国のリーダーがはったりを語ることはよくあることだが、ダビデ王は不安で恐れに満ちた心境を神の前に吐露し、公に神を賛美するための詩篇に記している。
彼は「主よ私はあなたに身を避けています」(1)と、最終的な拠り所は神であるという信仰告白をする。そして、神は神により頼む者が恥を見ない(失望に終わることがない)ようにしてくださること、神の義は、正しくない者を義とする「与える義」であることを確信して、危機的状況から助け出してくださるように祈っている。
「私を導き 私を伴ってください」(3)「網から私を引き出してくださいます」(4)という言葉は、詩篇23篇で主を羊飼いに例えていること、そしてイエス様がご自身をよい羊飼いであると語られた言葉を想起させる。サタンの罠にはまり、死と滅びという網にがんじがらめになっていた人間を救い出すキリストは、この世に勝ったお方。「私の巌、私の砦」と主を仰ぎ見て歩む者は「圧倒的な勝利者」としてこの世を歩むことができる。
あなたがたは自分の身を聖別して、聖なる者とならなければならない。わたしが聖だからである。
(レビ記 11章 44節)
(ヨハネの福音書 17章16-19節より)
弟子たちへの告別説教を語り終えたイエス様は、「わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。真理によって彼らを聖別してください」(16,17)と父なる神に祈っている。
キリストを知った者は、汚れたこの世に生きていてもこの世のものではなく、この世に支配されない。神は私たちを聖なるものとしてこの世から取り分けてくださる。「あなたは、わたしのもの」(イザヤ書 43章 1節)という神様の愛のことばの通り、私たちは神のものなのである。
さらにキリストは、私たちをこの世から聖別するだけではなく、「わたしも彼らを世に遣わしました」(18)と、私たちをこの世に遣わしてくださる。多くの人が神の御国を受け継ぐことができるように私たちのこの世での営みを祝福し、キリストの栄光のために用いてくださるのである。
私たちが主にこの身を差し出すときに、主が聖別してくださり、主の「とっておきの器」として用いてくださるとはなんと感謝なことであろうか。
みことばは、あなたがたを成長させ、聖なるものとされたすべての人々とともに、あなたがたに御国を受け継がせることができるのです。(使徒の働き20章32節)
パウロは、第3次宣教旅行の最後に、自分が伝道して開拓した教会のアジアの諸教会のリーダーたちを集め、「今私は、あなたがたを神とその恵みのみことばにゆだねます」と語り、教会がみことばによって成長し、御国を受け継ぐようにと願った。「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です」(テモテへの手紙第二 3章 16節)とあるように、神に召し出された人の集まりでありキリストのからだである教会が健全に成長していくためには、みことばに養われていく必要がある。そして教会は、一人でも多くの者がみことばによって御国を受け継ぐことができるように、「信仰による救いを受けさせる」(テモテへの手紙第二 3章 15節)みことばを宣べ教える働きが委ねられている。みことばにゆだねて歩んでいこう。
そこであなたがたは家族の者とともに、あなたがたの神、主の前で食事をし、あなたの神、主が祝福してくださった、あなたがたのすべての手のわざを喜び楽しみなさい。
(申命記12章7節)
(申命記12章1〜7節より)
神がご自分の民に対して与えた「守り行わなければならない掟と定め」は、現代の私たちにも本当の生き方を教えている。
「主があなたに与えて所有させてくださった地で」(1)とあるが、今、自分がいる場所はすべてを統べ治めておられる神が与えた所であり、そして神を信じる者には神がともにいてくださる。どんな状況にあってもそこに神の臨在を認めるときに、そこは神の御国であるといえる。
そして、異教の偶像をことごとく破壊し一掃するようにと命じているが、サタンは偶像を利用し人間を惑わすこと、また心に持ち続けている目に見えない偶像が心を縛りつけ苦しめ続けていくという偶像の危険性を十分に認識すべきである。
そして、キリストにあって罪と死の呪いから自由にされた者は、主と親しく交わり、主が祝福された手のわざ、すなわち主にある営みを喜び楽しむことができる。新しい年、主にあって喜びと楽しみの日々を過ごしたい。