夕暮れには涙が宿っても朝明けには喜びの叫びがある。
(詩篇 30篇 5節)
(マタイの福音書 2章より)
東方の博士たちからユダヤのメシア誕生を知らされたヘロデ王は、自分の王位が奪われるのではないかと危惧し、その子を殺害するべく、ベツレヘムの2歳以下の男の子を皆殺しにする命令を下す。その惨劇をマタイは、エレミヤ書の「ラマで声が聞こえる。むせび泣きと嘆きが。ラケルが泣いている。その子らのゆえに。慰めを拒んでいる。子らがもういないからだ。」ということばを引用する。難産で子供を産んだ末に命を落とし、ラマに葬られたラケルの嘆きと重ね合わせる。イエス様は、父親ヨセフに天使のお告げがあり、この時は難を逃れたが、それは全人類の救いのための犠牲となるためであり、さらに地上の生涯を歩むこととなる。
人を妬み、憎み、殺し、神をも抹殺してしまうのが人間の罪の姿。人を滅びの闇へと向かわせる罪から救うために、キリストは来られた。
「あなたは私のために嘆きを踊りに変えてくださいました」(詩篇 30篇 11節)とあるように、神は、私たちの悲しみ・嘆きの場所を喜びと踊りの場所に変えてくださる。福音にはどのような状態にある者も圧倒的な勝利者とさせる力があるのだ。この神の臨在のもとに新しい一年も歩んでいきたい。
「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。(マタイの福音書
1章 23節)
神の御子キリストが人の子として生まれた時にに寝かされたのは、家畜小屋の飼い葉桶だった。このことは、汚れて悪臭を放つような罪にまみれた私たち人間のたましいを救う救い主として、キリストがこの世に来られたことを教えている。キリストは、私たち人類の、神から離れ死んで腐敗したたましいをよみがえらせ、悪臭を放つ心にキリストのかぐわしい香りをもたらし、暗い人生にまことの光をもたらしてくださる。
神が私たち人間に「あなたは高価で尊い。あなたを愛している」という思いを明らかにされ、「あなたとともにいる」と、私たちと共に歩んでくださろうとしておられるのだ。
まことの救いをたずさえてキリストが私たち一人ひとりに訪れてくださったキリストを心に迎えることが、本当のクリスマスを過ごすといこととなる。一人ひとりが本当のクリスマスを迎えることができるよう祈りたい。
あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。
(ローマ人への手紙 12章 1節)
(マタイの福音書2章より)
旧約聖書に預言され、ユダヤの民が長く待ち望んでいた救い主の誕生。しかし、実際にそのメシアが生まれた時、両親と親類、天使から告げられた近郊の羊飼いたちの他は、ユダヤでそれを知る者はほとんどいなかった。ところが、遠く離れた東方の国の博士たちが新たな星の発見をその預言の成就と結び付けて考え、国の使いとしてはるばるエルサレムまで旅をしてきたのであった。
ユダヤの王も民もメシア誕生を外国の彼らから聞き驚く。王は自分の地位を守るためにその子を亡きものとする画策を練る。
博士たちは星を頼りに旅を続けるなかで、主に対する信仰が芽生えたのだろうか、彼らを導く星を見てこの上もなく喜び、ついに幼子のもとにたどり着いた時、彼らは心からイエス様を礼拝した。
彼らは高価な黄金、乳香、没薬を御子にささげるが、それが、まことの王であり、神であり、死をもって人類を贖うキリストを預言するものとなったのである。
私たちは今、人生を照らすまことの光を聖書によって知ることができ、聖霊によって確信することができる。そして主を信じる者のうちにはイエス様が住んでくださる。私たちはこのいのち、私たち自身をささげることで主の栄光をあらわすことができるのである。
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ローマ人への手紙 5章 5節)
自分の身に覚えのない婚約者のマリアの妊娠を知ったヨセフは、彼女が不貞を犯した女だと後ろ指を指されないようにと離縁して、彼女を密かに去らせようとする。しかし天使が夢に現れ、マリアの懐妊は聖霊によること、恐れずに彼女をめとり、生まれる子をイエスと名づけるように命じる。ヨセフは人間的な疑いや恐れや不安を捨てて、神のことばを信じ委ね、そのとおり実行する。それで、キリスト降誕という神のご計画が実現したのである。
今、キリストの御霊は主を信じる者のうちに内住してくださる。私たちは、この聖霊によって与えられたまことの希望を握って歩むことができるのだ。
愛する者よ。あなたのたましいが幸いを得ているように、あなたがすべての点で幸いを得、また健康であるように祈ります。(ヨハネの手紙第三 1章 2節)
堕落したソドムの町を神が滅ぼそうとされているのを聞かされたアブラハムは、そこに住んでいる甥のロト一家を思い、もしソドムに何人か正しい者がいたら町を赦してくださるよう神にとりなしの祈りをする。
キリストも、聖霊も、私たちのためにとりなしてくださっている。そして今、私たちが神を知り、主に従うことができるのは、誰かのとりなしの祈りによるものかもしれない。
私たちが神の恵みをとりなす者となること、しつこく忍耐をもって祈ることを、神は求めておられる。私たちの祈りは決して小さくはない。神が聞いてくださるからだ。家族・友人のために、地域・国のために祈る者でありたい。
「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。(ヤコブの手紙 2章 23節)
神はアブラハムと友として親しく交わる。アブラハムの甥の一家が住むソドムの町が神に反逆し罪にまみれていることを知った神は、その有様を確認してから、その町を滅ぼそうと向かわれているその途中で、アブラハムのもとを訪れたのであった。このことを打ち明けられたアブラハムは、ロト一家の愛のゆえに、もしソドムに何人か正しい者がいたら、悪い者と一緒に滅ぼしてしまっては神の公正さが損なわれると、神の立場に立って、赦しを懇願する。この赦しの構図は、一人の正しいキリストのゆえに多くの人が赦されるというキリストの姿を彷彿とさせる。
キリストは、私たち人間を友と呼び、私たちのためにいのちを捨てることで、本当の愛を示してくださった。主を信じて歩む私たちも、神のほんとうの愛に生きることができる。神は「あなたは、わたしの友アブラハムの裔だ」(イザヤ書 41章 8節)と私たちに語りかけてくださっているのだ。
こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。(コリント人への手紙第一 13章13節)
コリント教会の分裂分派の問題は、愛の欠如から来ているとパウロは叱責する。預言や異言の力や知識を誇っていた者たちに、それらは一時的なものに過ぎず、愛こそが絶えることのない最も価値のあるものであることを語る。
私たちは霊的に成長し大人となった時に、顔と顔を合わせて見るように、愛なる神ご自身を深く知ることができる。「愛は結びの帯として完全」(コロサイ3:14)であり、神は私たちが愛において完全になることを求めておられる。人間の努力では不可能だが、キリストのこの言葉に望みがある。「人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。」(マタイ19:26)
愛は寛容であり、愛は親切です。
(コリント人への手紙13章4節)
キリストは弟子たちに「互いに愛し合いなさい」(ヨハネの福音書 13章 34節)と命じたが、コリント教会においての派閥争いの原因はこの愛がないことであるとパウロは指摘する。どんなにこの世で優れているように見える能力も、そこに愛がなければ、何の価値もないどころか、迷惑な害としかならないと彼らを痛烈に批判する。自分の能力やわざを誇るようになる罪から来る自我が元凶である。
キリストは「人が自分の友のためにいのちを捨てる」(ヨハネの福音書 15章 13節)という最も大きな愛のわざをなしてくださった。主を信じる者には、そのキリストの霊が宿っている。聖書の中心的な教えである「神を愛し、人を愛していくこと」こそが、神様に造られた私たち人間の歩みなのだ。
彼らは来て生まれてくる民に主の義を告げ知らせます。
主が義を行われたからです。(詩篇 22:31)
ダビデはこの詩篇の中で、苦悶する思いを神にぶつけている。一国の王としての、また個人的な神への切なる訴えは、やがて賛美へと変わっていく。まことの王権・主権が神にあることを再確認し、彼は神の義に心を留める。主の義は、神が絶対的に正しいお方であるだけでなく、罪を犯した人間をも義としていくもの。人間を愛するがゆえの、神の真実がそこにはあった。そしてそのために、神のひとり子のいのちという尊い犠牲が払われた。神からの義をまとうことがゆるされていることは何と感謝なことであろうか。全権を握っておられる神が味方となってくださることは、何と心強いことであろうか。
もうしばらく、光はあなたがたの間にあります。闇があなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい。(ヨハネの福音書 12:35)
十字架の死が目前に迫った時、イエス様はご自身の使命を再確認なさり、神の栄光を祈るとともに、「今、この世に対するさばきが行われ」(31)と、神のさばきの時が迫っていることを語る。神に逆らう悪い者は滅びに至るが、神の前に義人は一人もいない。だからこそ、キリストによって救いの道が用意された。このキリストを信じる者が救われ、永遠のいのちを得ることができる。さらに、「今、この世を支配する者が追い出され」(31)と、サタンの闇の支配から光なるキリストが解放してくださることが語られる。
今、キリストを認めることができるときに、人間がキリストを信じ救いにあずかることを、神は願っておられる。
イエスは答えられた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためです。
(ヨハネの福音書
12章30節)
(ヨハネの福音書12章より)
エルサレムに入城したイエス様は、心を騒がせて、「『父よ、この時からわたしをお救いください』と言おうか」と十字架での処刑を目前に、苦悩し、自問自答する。しかし直後に「いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ」と、神の人類救済のご計画を遂行するために、この世に生まれたことを再確認し、人類の身代わりに神に呪われさばかれる道を進んでいく。
神の摂理のうちに、私たち一人ひとりに与えられている使命がある。自分の願うようにではなく、神のみこころがなることを求めるところに、神の栄光が現されるのだ。
24,まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。
(ヨハネの福音書 12:24)
(ヨハネ12章より)
イエス様がエルサレムに入城した時には、大勢の人々がイエス様がローマの圧政から自分たちを救う英雄となることを期待して歓迎したが、キリストは、人類を罪の支配から救うというもっと大きな使命を全うするために、ここに来たのだった。
一粒の麦が地にまかれるならば豊かな実を結ぶように、キリストひとりがすべての人の罪を背負って死ぬことによって、多くの、それを信じる者はが救われることをイエス様は告げる。
そこにいた弟子のピリポもアンデレも、そして後に復活したキリストと出会うパウロも、キリストに招かれて弟子となり、「一粒の麦」となって多くの人をキリストにつなげた。
「わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。」(26)と今日も、キリストは私たちを招いている。
今私は、あなたがたを神とその恵みのみことばにゆだねます。みことばは、あなたがたを成長させ、聖なるものとされたすべての人々とともに、あなたがたに御国を受け継がせることができるのです。
(使徒の働き 20章 32節)
(使徒の働き 14章より)
パウロとバルナバはアンティオキア教会から宣教のために送り出され、地中海を渡る。行く先々で、多くの人が悔い改めてキリストを信じたその一方で、ユダヤ人の指導者たちは反感を持ち、パウロを追いかけ石打ちにしてしまう。しかし神様の不思議なみわざによってパウロは再び立ち上がり、今度は自分を殺そうとしたユダヤ人たちがいる町々にに戻っていく。それは、そこでクリスチャンになった人々を:迫害の中でも信仰を捨てることがないように励ますためであった。
「神の恵みにゆだねられて送り出された」(26)パウロとバルナバは、「神の恵みにとどまるように」(13:43)と説き、「彼らをその信じている主にゆだねた」(14:23)。この恵みのみことばを握って歩んでいこう。
生ける神に立ち返るように
すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。
(ローマ人への手紙 11章 36節)
(使徒の働き14章より)
ヘレニズム文化の色濃いリステラでのこと、バルナバとパウロが足の不自由な人を立たせるという不思議なわざを行うと、それを見た人々は、二人をギリシャ神話の神々のゼウスとヘルメスの化身だと祭り上げ、ささげものを捧げようとする。それまでどんな迫害にも耐え忍んできた二人だが、自分たちが神とあがめられることには我慢がならなかった。二人は激しくそれを拒否し、「空しいことから離れて……すべてのものを造られた生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている」と感情をあらわにして叫ぶ。
主に愛され主に贖われた私たちは、何よりも神がほめたたえられることを願う。そのためにすべての者が神に立ち返るように、宣教はなされるのである。神に栄光あれ!
私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。
(ピリピ人への手紙 1章 21節)
(使徒の働き 14章より)
パウロとバルナバが第1次伝道旅行でイコニオンを訪れたときのこと、ここでもピシディアのアンティオキアと同じように、大勢の人がキリストを信じるが、ユダヤ人の指導者たちは二人に敵対し、群衆を扇動し二人を石打ちにして殺してしまおうと企てる。それを知った二人は、難を逃れてリカオニアの町およびその付近の地方に行くが、そこで福音宣教を続ける。
宣教には痛みが伴う。人を罪から救うことを決めた父なる神がまず、ひとり子キリストを犠牲として差し出し、キリストも父なる神に見捨てられ、人間の罪をすべて背負って十字架で死なれた。本当の愛には痛みと犠牲が伴う。
いのちを落とすことよりも、福音の前進が途絶えることを恐れた二人。 「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です」というパウロの告白は、キリストの御霊を宿すすべてのクリスチャンにとっての告白ではないだろうか。
見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。(ヨハネの黙示録
3章 20節)
(創世記18章より)
旅人たちがアブラハムの幕屋を通り過ぎようとなさったとき、アブラハムは彼らを迎え入れ、もてなした。
人間は、きよくなることや修行を積むことで神に近づこうとするが、まことの神は、神のほうから私たち人間に近づき、訪れてくださるお方。そして、私たちが心の扉を開けて主をお迎えすれば、私たちは主と、共に食事をし語らうように親しく交わることができる。
アブラハムを訪れた旅人のうち一人は主であったが、主はサラに男の子が生まれることを約束する。人間の常識・科学では不可能なことにサラは笑うが、「主にとって不可能なことがあるだろうか」(14)という主のことばどおりに、そのことばは実現する。
礼拝は主を迎え、主をもてなす場といえる。私たちの全存在をささげて主をもてなし、主に喜んでいただこう。そして、主の希望のことばをしっかり握って歩んでいこう。
すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイの福音書 11章 28節)
(創世記18章より)
当時の自然環境・交通事情から、命がけで旅をする旅行者をもてなすことが習慣となっていた。3人の旅人を見たアブラハムは、彼らを自分の天幕に迎え入れる。客を「ご主人様」、自らを「しもべ」と呼び給仕する姿から、キリストの人間に対する姿勢を見ることができる。
「この木の下でお休みください」(4)と水を与え、足を洗う姿は、人間にいのちの水を与え、弟子の足を洗い、「あなたがたを休ませてあげます」と私たちを招くイエス・キリストの姿と重なる。90歳になろうというアブラハムが走り、テキパキと使用人に指示を与え、豪勢な料理でもてなそうとする姿は、敵の前でさえも様私たちをあらゆる霊的な祝福をもって養ってくださる神を彷彿とさせる。
招待に応じた旅人を喜び宴会が開かれたように、神のもとに一人が立ち返った時に、天において大きな喜びがある。神はいつも私たちをもてなそうと招いていてくださるのだ。
一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。(Ⅰコリント12:26)
教会はキリストのからだであり、一人ひとりは各器官であると語るパウロは、私たち人間が見栄えがしない部分を覆ったり飾ったりするように、「神は、劣ったところには、見栄えをよくするものを与えて、からだを組み合わせられました」(22)と、人間的な判断で人の価値を図ることなどできないと戒める。
パウロは自身の弱さを痛感していたが、神の力が弱さのうちに完全に現れるから、むしろ大いに喜んで自分の弱さを喜び、誇ると語る(Ⅱコリント12:9)。
私たち一人ひとりの喜びは、キリストのからだの喜びとなる。お互いを認め合い、尊び合い、神様のみわざが表されるように、願っていこう。
私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。(Ⅰコリント12:13)
12章において、パウロはコリント教会に対して、同じ御霊から人それぞれに異なった賜物が与えられ、「同じ神がすべての人の中で、すべての働きをなさ」(6)ると説き、教会においては個人の違いが分裂・分派へとはつながらないことを諭す。
「どうせ私はいらない」という自己卑下や「あなたは必要ない」という傲慢のことばは、この世的な機能的人間論から来るもの。私たちは聖書に基づいた人間観をもって人の価値を尊ぶのである。
人間の身体のほとんどは水であると言われるが、キリストのからだである教会も「みな一つの御霊を飲んだのです」(13)とあるように、イエス様から流れ出る御霊の水で満たされている必要がある。それを他のもので満たそうとして御霊を消すことがないように気をつけたい。
私たちは皆、おひとりの御霊なる神から任命されてキリストのからだのそれぞれの器官とされた。御霊にあふれて、御霊に満たされて歩み、キリストのみからだが成長するように歩みたい。
主を恐れる人々よ 主を賛美せよ。(詩篇22:23)
ダビデが記した詩篇22篇のことばのいくつかは、キリストの受難と贖いのみわざの預言となったが、最後の部分は神への賛美で締めくくられている。
「ヤコブのすべての裔よ イスラエルのすべての裔よ」(23)ということばによって、神が父祖たちに約束された祝福が、同じ神を信じる現代の私たちにも受け継がれている約束であることが確認できる。「貧しい人々が食べて満ち足り」(26)と、キリストは私たちに寄り添い、無から有を生み出す力と権威と恵みに満ちておられるお方であることが語られる。だから私たちは「地の果てのすべての者が思い起こし主に帰って来ますように」(27)と、すべての造られた者によって主の御名があがめられることを強く願う。栄光が神にあるように!
キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。
(コロサイ人への手紙 3章16節)
パウロは、神様が教会に期待している姿として、「深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい」(12)と語るが、罪により神のかたちを損ねた私たち人間のうちから出てくるのは、良いものよりも悪いもの。だからパウロは「主イエス・キリストを着なさい」(ローマ13:14)と教えている。キリストという新しい衣を着ることによって、愛が生まれ、キリストの平和に支配され、そこから賛美と感謝が溢れてくる。キリストという衣は、私たちの内側を「造られた方のかたちにしたがって新しく」(コロサイ 3:10)してくださるのである。
キリストについて語られたことば、キリストが語られたことば、キリストを語ることばで豊かにされていこう。
なつめ椰子の枝を持って迎えに出て行き、こう叫んだ。「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」
(ヨハネの福音書 12章 13節)
イエス様のことばやたくさんの病人を癒やしてきた奇跡はおろか、死んだラザロさえよみがえらせたことを聞いた人々の熱狂は最高潮に達していた。いよいよイエス様がエルサレム入城の時、群衆は王を迎えるようにして、「ホサナ」(ここでは「万歳」という王を迎えることばとして)叫び、イエス様がその不思議な力によってローマ帝国に反旗を翻しユダヤ人を救う新しい王として君臨することへの期待を顕にする。
一方、イエス様やラザロを亡きものとしようとしていた宗教指導者たち。彼らはキリストを目の当たりにしながら、イエスが預言されている救い主であることが見抜けなかった。
イエス様を取り囲んでいたのは、イエス様に対する見識を誤っていたのだったが、その「ホサナ(本来は「救ってください」の意)」という叫び、あるいはカヤパによる「人が民に変わって死んで、国民全体が滅びないで済むほうが自分たちにとって得策だ」との発言が、キリストがすべての人の贖いのために死ぬ救い主であることを預言となっている。人のもくろみや企みを超えて、神の愛のご計画は進んでいくのだ。
今、まことのキリストを知る私たちは、この「ホザナ」という言葉を、主こそまことの救い主であり、まことの王であるという信仰告白として、神のみ救いのわざをたたえる言葉として使うことができるのだ。
あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
(マルコの福音書 12章 30節)
(ヨハネの福音書12章より)
イエス様がラザロの家に滞在していたときのこと、ラザロのきょうだいのマリアは、「純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった」(3)。「なんてもったいないことを!」と、財布を預かっているユダが彼女を避難するが、イエス様は、「そのままさせておきなさい。マリアは、わたしの葬りの日のために、それを取っておいた」と、彼女を弁護する。
マリアが家の財産とも言える高価な香油をイエス様に注いだのは、純粋な愛からであった。主へのささげもの、神への奉仕は、採算や効率というものを超えたところにある。
今、心から願うのは、主を愛し、全存在をささげ、心からの奉仕によって、主がお喜びになる最もよい香りを主の御前に立ち上らせることである。
神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。(コリント人への手紙第一 1章 25節)
(ヨハネの福音書11章より)
イエスを疎ましく思うユダヤ人の指導者たちは、最高法院でイエス様の処遇について頭を悩ます。祭司長カヤパの「一人の人が民に代わって死んで、国民全体が滅びないですむほうが、自分たちにとって得策だ」(50)という発言により、イエス様はいのちを狙われていく。しかし、このことばは、神の人間を救済するキリストによる贖いのご計画を預言するものとなった。罪のない神の子キリストが人間の罪を身代わりに負って十字架で処刑されるという「愚策」こそが、神の義と愛を全うし人間を救うただ一つの方法であり、そこに神の愛が表されている。
全地よ主に向かって喜びの声をあげよ。(詩篇 100:1)
(使徒の働き 13章より)
ピシディアのアンティオキアでのパウロの説教を聴いた人々は心打たれ、「次の安息日には、ほぼ町中の人々が、主のことばを聞くために集まって来た」(44)。それとは対象的なのが、ユダヤ人の指導者たち。「この群衆を見たユダヤ人たちはねたみに燃え、パウロが語ることに反対し、口汚くののしった(45)」。毎週会堂で神のことばを解き明かしていたはずのユダヤ人が、何と、神のことばに満たされている群衆を見て、怒り、パウロとバルナバをこの地方から追い出してしまう。ところが「弟子たちは喜びと聖霊に満たされ」(52)異邦人たちに向けて宣教を展開してい。。みことばは聞く者の心に潤いをもたらし、語る者を喜びで満たす。福音が前進していく力は誰にもとめられない。宣教は、全能であり全権を握っておられる主の霊が進めておられるのだから。
わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。(ヨハネの福音書 15章 4節)
(使徒の働き13章)
ピシディアのアンティオキアでのパウロは説教の締めくくりの部分で、「兄弟たち、あなたがたに知っていただきたい。このイエスを通して罪の赦しが宣べ伝えられている」(38)とイエスによる贖いのわざを声を大にして語る。パウロの説教を聞き、みことばに対しての聖なる飢え渇きを覚えてなおも説教を求める人々に対し、パウロとバルナバは、神の恵みにとどまるように説得する(43)。いのちのパンであるキリストにとどまるならば、キリストが私たちのうちにとどまってくださる。これこそが、私たちの人生の最大の喜びではないだろうか。
これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。
(ヨハネの福音書 20章 31節)
ピシディアのアンティオキアで説教を語るパウロは、詩篇2編を引用し、「あなたはわたしの子。わたしが今日、あなたを生んだ」という、言葉が、神が天からまことの王としてイエス・キリストを地上に遣わすことを預言したものだと語る。さらに詩篇16篇から、「あなたは、あなたにある敬虔な者に滅びをお見せになりません」と主を信じる者は復活の主のいのちにあずかることを語る。そして「このイエスを通して罪の赦しが宣べ伝えられている」(38)「信じる者はみな義と認められる」(39)とこの贖い主によってのみ人は救われることを熱く語る。この御名を語り、この御名によって歩んでいこう。
それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。(ピリピ人2:10〜11)
(使徒の働き2:5~11より)
ペンテコステでの聖霊降臨の出来事を目の当たりにしたのは、祭りのために各国からエルサレムに集まっていたユダヤ人たちであった。外国語を習得したことのないガリラヤの者たちが御霊によって神のことば、福音を外国語で語り出し、そこにいた諸国のユダヤ人たちが皆自国のことばでそれを聞いたのである。
キリストが、「行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」(マタイ 28:19)と語ったのは、すべての被造物が「イエス・キリストは主です」と告白して、神に栄光を帰するためなのである。御霊を頂いた私たちは、神のみわざを語り、神をほめたたえる者として歩むことができるのは、何と感謝なことであろうか。
聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。
(使徒の働き 1章8節)
五旬節(ペンテコステ)の日に弟子たちが祈っていると、イエスが約束された聖霊が降ったことから、後に「ペンテコステ」という言葉がこの出来事を意味するようになる。その時「天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった」(使徒1:2,3)。それは、この世の現象とは全く違う、神からのみわざであった。そして「炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった」(3)。私たちは、ことばであるキリストを内に宿すものとされ、キリストのことばを話すための舌が与えられたのである。「御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた」(4)ことは、この福音はすべての民族・国民に与えらえていることを証明することとなった。神はすべての時代のすべての者が、神の御前に一つとなって、神の御前に出で主の御顔を拝することを願っておられる。
あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。(エペソ人への手紙 2章 19節)
(創世記17章より)
神は、アブラハムを人類の代表とし、祝福の契約を交わす。それで語られたのは、90歳の妻サラを通して子孫を繁栄させるという、人智をはるかにこえた神のみわざであった。その契約としるしは、アブラハム一族の割礼であった。神が固えり終えた直後、アブラハムは家の者を集めてその日のうちに、すべての男子に割礼を施した。そこには、「彼の家で生まれたすべてのしもべ、また、金で買い取ったすべての者、すなわち、アブラハムの家のすべて」(23)とあるように、何の差別もなく、皆が一つ心になり、神の前に膝まづく姿があり、これが神の家族のありかたである。
神と人とのおおいを取りのけられて、教会が一つの家族となっていくことが、神のみこころなのである。
ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。(コリント人への手紙第二 12章 9節)
(創世記17章より)
神は、アブラハムに子孫繁栄の祝福を約束する。しかも90歳の妻サラに男が生まれ、その子から子孫が増え広がっていくのだという。それを聞いたアブラハムはひれ伏して、笑った「九十歳の女が子を産めるだろうか」(17)と笑ってしまう。イエスの母となったマリアに天使が語ったように、全知全能に不可能はない(ルカ1:37)。私たちの幸せのために、神は私たちの人生に人智をはるかに超えたみわざをなしてくださる。マリアのように、「あなたのおことばどおり、この身になりますように」(ルカ1:38)と、弱さを持つこの身に神のみわざがあらわされることを待ち望んでいきたい。
あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。(マルコの福音書 12章 30節)
(創世記17章より)
神はアブラハムに祝福の契約のしるしとして、民に割礼を施すように命じる。割礼は、人間が神様の前にあるべき心の姿を現していると言える。「あなたがたは心の包皮に割礼を施しなさい。もう、うなじを固くする者であってはならない」(申命記 10章 16節)とあるように、神様の前に心をさらけ出し、神様から頂くのでなければ人間は何も持ちえないこと、神様の前に立つこともできないものであることを認めて、悔い改め、神様の憐れみを乞う。神の前の言わば物乞いの心こそが、神に受けれられ、神に喜ばれるもの。人間は、キリストによってのみ心の覆いを取り除いていただいただける。そうして神と愛の関係の中に生きること、それが人間の一番の祝福なのである。
御霊は、みこころのままに、一人ひとりそれぞれに賜物を分け与えてくださるのです。(コリント人への手紙第一12章11節)
才能や財産、知識や技術、性格や個性、環境や立場など、神様は人間にいろいろな賜物(=ギフト)を与えてくださっている。御霊によって神を信じる者にとって、それらは神様への「奉仕」「働き」とつながっていく。それを聖書は「御霊の賜物」と呼ぶ。そして神からの最高のギフトは、キリストが自らを犠牲にして人間に与えられた永遠のいのちだと言える。キリストの愛にとらえられた者はキリストのために生きる者へと変えられていき、そこに神と人とが与え合う愛の関係が築かれていく。この存在をもって神の栄光を表すことで神様への愛をあらわしていきたい。
あなたは私に答えてくださいました(詩篇22:21)
この詩篇は、1節の「わが神わが神どうして私をお見捨てになったのですか」(イエスが十字架上で叫ばれた言葉)、18節の「彼らは私の衣服を分け合い私の衣をくじ引きにします。」(イエスを連行したローマ兵らの行動)など、キリストの十字架での死の姿を預言するものとなった。
ダビデは、一国の王として、一人の信仰者として、敵国からの攻撃から、サタンの攻撃から守ってくださるように神の助けを祈る。しかし、「離れないでください」「早く助けに来てください」(19)、「救い出してください」(20)、「救ってください」(21)という祈りの直後、「あなたは私に答えてくださいました」と述べている。これは、「あなたがたが祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい」(マルコ 12:40)というイエスのことばのとおり、神への絶対的な信頼がそこに表れていると言える。神にすべてを委ね、任せきって、平安のうちを歩む信仰を求めていこう。
イエスは彼女に言われた。「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。(ヨハネの福音書 11章40節)
ラザロの墓の入り口の石を取り除けるように言いつけるイエスに、ラザロの姉妹マルタは「主よ、もう臭くなっています。四日になりますから」と言う。しかしイエスが墓に来たのは、ラザロに最後の別れをするためではなかった。「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか」とマルタを励まし、父なる神に祈った後、「ラザロよ、出て来なさい」と叫ぶと死んだラザロが生き返って出てきたではないか。
罪故にたましいが死に、腐り、悪臭を放つ人間を、キリストは「かぐわしいキリストのかおり」(コリントⅡ2:15)を放つものと変えてくださる。キリストを信じる者は、恵みとまことに満ちた神の栄光を見ることができるのである。
夕暮れには涙が宿っても朝明けには喜びの叫びがある。{詩篇 30篇 5節}
ラザロが死んで悲しみに暮れるマルタとマリアのところに出向き、「主よ。もしここにいてくださったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」という、責めるかのようなあえて言葉を受け止めるイエス様。「不思議な助言者=ワンダフル・カウンセラー」であるイエス様は、「疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい」(マタイ11:28)と私たちを招き、そこで私たちは思いのすべてを吐き出すことが許されている。
そして、イエス様はラザロの死を悼む人々に激して、「涙を流された」(ヨハネ11:35)。イエス様は、私たちに同情し、涙を流してくださり、その涙の夜を喜びの朝へと変えてくださる神。このお方に見えることができる喜びを祝うのが本当のイースターなのである。
イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。(ヨハネの福音書11:25)
ラザロの病気の知らせを受けてイエス様が訪ねた時は、すでにラザロが死んで四日が経とうとしていた。出迎えたマルタは、「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」とイエス様を責めるかのような言葉とともに、「しかし、あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、私は今でも知っています」と、なおも神への期待を語る。そんな彼女にイエス様は、「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きる……あなたは、このことを信じますか」と、彼女の信仰を呼び覚ます言葉をかけるのである。
この問いに答えたマルタは、その後ラザロの墓に向かい、そこで主の御力を見ることになる。神は私たちに、真実な神のことばへの信仰を喚起し、励ましてくださるのだ。
この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。(ヨハネ 11:4)
兄弟のラザロが重病に冒されていることを、マリアとマルタは親しくしていたイエス様に知らせる。状況をまるごと神の前に差し出していく時、神がみわざをなしてくださるという信仰がそこにはあったのであろう。イエス様は「だれでも昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです」(9)と、私たち人間の人生を照らす光としてこの世に来られたことを語り、「彼を起こしに行きます」と死んでしまったラザロのもとに向かう。
すべてのものにいのちを与え、そのいのちを司るイエス様にとって、死人を生かすことなどはたやすいこと。
神は、私たちが人生に倒れることがあっても起こしてくださるお方。そして、私たちを通して、神の栄光をあらわしてくださるお方なのだ。
この救いのことばは、私たちに送られたのです。使徒の働き 13章26節)
ピシディアのアンティオキアでのパウロの説教は、キリストを預言した旧約聖書から始まり、キリストを指し示したバプテストのヨハネの言及に及ぶ。父祖アブラハムへの祝福の契約はキリストの福音のことばへとつながっており、現代の私たちにも送られている。聖書に精通している当時の宗教的指導者たちは、預言のことばを理解することができずにイエスを罪に定めて処刑したが、かえってそれがキリストの贖いの預言を成就させたほどに、神の約束は絶対である。
復活したキリストに出会った弟子たちはイエスの証人となり、天にあげられたキリストの声を聞いたパウロも宣教するものとなった。
私たちは、私たちに送られた福音のことばとどう関わっていくかが、問われているのである。
神は約束にしたがって、このダビデの子孫から、イスラエルに救い主イエスを送ってくださいました。(使途の働き13:23)
バルナバとパウロによる第一次宣教旅行はキプロス島からトルコへ向かった。ピシディア州のアンティオキアでの会堂で説教を依頼されたパウロは、旧約聖書から神の御約束と神の民の歩みを紐解いて、キリストの福音は旧約聖書に反するものではなく、預言の成就であることを教える。
他人の妻を横取りするために彼女の夫を亡き者とした大きな罪を犯したダビデだが、悔い改めて、救いはただ神にすがるしかないという信仰によって彼は神に目を留められ、義と認められ、彼の子孫からキリストが誕生するという約束が成就した。
義さえも恵んでくださる神に感謝し、キリストのいのちに生き、キリストと人をつなぐ者となりたい。
これが、あなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。(創世記17:4)
神がアブラハムに語った祝福の約束を、神は「わたしの契約」と語る。絶対的権威者であり全知全能であり、すべてのものの造り主である神が、被造物である人間と結ぼうとする契約は、人間が本当のいのちを再び得るように、神がご自身のひとり子のいのちという代価を支払うという、神に敵対した人間を愛するという一方的な愛が具現化した驚くべき愛に基づく契約である。神のアブラハムとの契約は、現代の私たちにとっても有効である。キリストの救いを信じることだけで成立するこの契約を結ばないほど愚かなことはないのではないだろうか。
わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、またあなたの後の子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。(創世記17:7)
神はアブラムに祝福の契約を交わしたのは、彼が99歳のときであった。私たちは人間的な浅はかな判断で物事をとらえてはならない。神様の時に、神は御手を動かす。そして祝福の条件は、神の前に歩み全き者であること。人間は生まれながらにして罪があり自ら神の前に立ちおおせない存在だが、アブラムは、神が義の衣(キリスト)を用意してくださることを信じ、その祝福は今に至るまで続いている。「あなたを大いに増やす」とは、アブラムの信仰による義認と、祝福が多くの人に豊かに与えらえること。今、神を信じ、祝福が与えらているこの私たちが、その証拠なのである。
皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられているのです。
(コリント人への手紙第一12:7)
分裂・分派の問題を抱えていたコリント教会に、パウロは、御霊の賜物について語る。
かつてはギリシャの偶像礼拝の文化の中で過ごしていた者たちも、今や御霊によって新しく生まれたものであることを強調する。御霊の賜物は神からの贈り物、ギフトであり、一人ひとりに異なった形で与えられる。私たちはお互いの違いを認めつつ一致することができるのである。神からの賜物を神にお返しするときに、それが奉仕となる。神への奉仕は、キリストのからだである教会、私たち一人一人の成長とつながり、「皆の益となる」のである。神様にささげることを学び、神の栄光を表していきたい。
幸いなことよ悪しき者のはかりごとに歩まず罪人の道に立たず嘲る者の座に着かない人。
(詩篇 1篇 1節)
詩篇22篇の中の多くのことばははキリストの十字架の贖いのみわざを預言することとなった。ダビデは、取り囲む敵からあざけられる。「主に身を任せよ。助け出してもらえばよい。主に救い出してもらえ。彼のお気に入りなのだから」(8)。十字架上のキリストもこのことばであざけられののしられた。十字架から降りて見せれば信じよう、という言葉にも動じずに、ただ神が計画なさった人類救済のために自らを犠牲にする。
ダビデは詩篇1篇で、あざけるものの座に着かずに主の教えを喜びとする者の幸いを歌っている。ペテロは、「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された」(Ⅰペテロ 2:21)と語る。神に従う者が迫害されるのはある意味、当然なことと言える。しかしどんなにさげすまれようとも、私たちには誇るものがある。「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力」(Ⅰコリント 1:18)なのだ。
あなたはその方のために、すべての人に対して、見聞きしたことを証しする証人となるのです。
(使徒の働き 22章 15節)
(ヨハネの福音書 10章より)
ご自身が神の子であることを明言なさったイエス様に怒りを燃やし、石打ちにしようとするユダヤ人たち。その手を逃れイエス様は、かつてバプテスマのヨハネから洗礼を受けた場所、ヨルダン川の向こう岸に滞在する。
その姿に、民はヨハネの証しを思い起こしたのだろうか、多くの者がイエス様のもとに集まってきた。
自らを「荒野で叫ぶ者の声」だと語り、自分ではなくもっぱらキリストを指し示すために活動をしたヨハネ。かつて全国からヨハネのもとに集まった場所で、今度はキリストのもとに多くの人が訪れ、信じるようになる。
暗闇に人生を支配されている人々が新しい人生をスタートできるように、ヨハネのように真実のことばをもって、まことの光であるキリストを指し示していく者でありたい。
またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。(ヨハネの福音書 17:22)
(ヨハネの福音書10章より)
「わたしと父とは一つです」というイエスの言葉を聞いたユダヤ人たちは殺意に燃え、イエスを石打にしようと手に石を持つ。どのわざの故にわたしを石打ちにするのか、という問いに、神を冒涜した罪だと答える。
イエスは「わたしは言った。『おまえたちは神々だ』」という詩篇82篇を引用し、父なるが聖なる者とし、世に遣わしたひとり子を神と等しく語るのは当然であると弁明する。同時に、神々とまで呼ばれた当時の指導者たちの体たらくぶりをユダヤ人の指導者たちと重ねて皮肉を込めて批判しているのである。
イエスは、自身のわざを信じること、それは、父なる神子が一つであることを知ることになると語る。イエスのわざとは、十字架での贖いのみわざを指す。ゲッセマネの園で「あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるため」と祈ったイエスの願いのように、私たちは一つとなることで神の栄光を表すことができる。罪を犯し、神との間にできた壁、人との間にできた溝をイエス様が取り除いてくださるのだ。
これは宮きよめの祭りでの出来事。私たち自身を神の前にきよい宮としてささげていこう。
わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。
(ヨハネの福音書 10章29節)
執拗に議論をふっかけてくるユダ人たちに対して、イエス様は、ご自分のことばを聞き、父なる神のみわざを見ても信じられないのは「わたしの羊の群れに属していないから」だと鋭く指摘する。これは選民意識を持ったユダヤ人の心を深くえぐる言葉であったろう。人は、生まれや行いによるのではなく、神の救いを受け入れることによってのみ、神の国に入ることができる。
この記事から、神様にとって、私たち人間は「すべてにまさって大切」(29)であり、滅びではなく永遠のいのちを得てほしいという神様の強い願いを窺うことができる。
キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい
(コロサイ人への手紙3;16)
同労者エパフラスからの報告で、彼が設立したコロサイ教会の問題点を知ったパウロが教会宛に書いた手紙。キリストの教え以外の「御使い礼拝(2:18)「自己卑下」「肉体の苦行」(2:23)など、キリストのあがないによる神との平和とは違う方法で神に近付こうとするもので、パウロは、肉の思いによっていたずらに思い上がり(2;18)何の価値のないものだ(2;23)と切り捨てる。
教会は、キリストの教えによってかしらなるキリストにつながり成長していくべきもの。キリストのことばを豊かに住まわせることによって、私たちは多くの実を結ぶことができる。
信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。
(ヘブル人への手紙 12:2)
アンティオケアの教会から遣わされたバルナバとサウロは、キプロス島に渡りキリストを宣べ伝える。「二人は聖霊によって送り出され」(4)とあるように、宣教のわざは人間の努力・技術ではなく、神の権威によって人が選ばれ、神の力によってなされていく。私たちはただ神の素晴らしさをあがめるだけの存在である。
その地方の総督セルギウス・パウルスはバルナバとサウロを招いて神のことばを聞きたいと願ったていたが、魔術師であり偽預言者であるバルイエスは、二人に反対して総督を信仰から遠ざけようとした。サウロは聖霊に満たされ、バルイエスを「悪魔の子」(10)と一喝すると、主の御手が下され、バルイエスは盲目になってしまう。総督はこの出来事を見て、主の教えに驚嘆し、信仰に入った。
人を神から遠ざけ、永遠の滅びに要らせようとするのは悪魔の働きであり、悪魔は人巧妙に罠を仕掛けてくる。私たちは、イエスの御名により、すなわちイエスの権威によって、天のあらゆる祝福を頂ける。このイエスから目を離さないでいよう。
神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。
(ローマ人への手紙 11章 29節)
使徒の働き13章では、アンティオキアの教会にスポットが当てられる。教会が始まった時から信徒としてよく仕えていたバルナバ、「黒人」と呼ばれるシメオン、北アフリカ出身のルキオ、領主ヘロデの乳兄弟マナエン、キリスト教会の迫害に燃えていたが回心してキリスト者となったサウロなどが指導者となっていたというほど、そのメンバーはバラエティーに富んでいた。
そして彼らが礼拝をし、祈りをささげているときに「バルナバとサウロを聖別して、わたしが召した働きに就かせなさい」という聖霊の声が聞こえた。イエス様が「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよい」(ヨハネ15:3)と言われたように、私たちはきよいささげものとしてこの身を神におささげすることができる。彼らは選ばれた二人に手を置いて送り出した。主の選びと宣教の働きは祈りからスタートしたのだった。
私たちは神に召されて教会に集い、神に召されて主の働きに就かせていただく。神の招きの声に応えよう。
父なる神と、私たちの主キリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安がありますように。
(テモテへの手紙第二 1章 2節)
(創世記16章より)
アブラムとサライの夫婦間のいさかいをきっかけとして、サライとの関係が壊れて家を飛び出した女奴隷ハガルに、神が御使いを遣わして声を掛ける。家に戻って主人であるハガイとの関係を築き直す
ることを言いつけ、男の子が生まれることを告げるとともに、その子を「イシュマエル(神は聞いてくださる)」と名づけるように命じる。神はどんな者にも目を留め、言葉にもならないうめきの声を聞いてくださるお方。ハガイはそこで主の名を「あなたはエル・ロイ(神は目を留めてくださる)」と呼び、あがめた。 やがて家に戻った彼女は、御使いのことば通り男の子を生み、主の恵みとあわれみの中で歩み始める。
神は私たちにみことばをもって語り、なすべきことを示してくださる。そして神との平和、人との平和を築くために、キリストが架け橋となってくださるのだ。
この一年私たちは、神が下さる恵みとあわれみ、そして平安(平和)のうちを歩んでいこう。