主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、懐に抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。
(イザヤ書 40章 11節)
聖書では、神と人間との関係を羊飼いと羊に例えているところがある。かつて自ら羊飼いであったダビデも「主は私の羊飼い」(詩篇23:1)と謳っている。羊飼いはその土地に歴史を刻む仕事として誇りを持ち、羊飼いを生業とする者にとって、羊はなくてはならない存在であり、彼らの生活そのものであり、いのちと言ってもいいものである。神様にとっては、人間を愛し育て導くことを生業のようにして、私たちを慈しみ、大事に取り扱ってくださる。「私は乏しいことがありません」(詩篇23:1)とは、衣食住が足りているということ以上に、神とともにいることのまことの平安のなかで憩い、満ち足りている様を現している。神のために何かをするというよりも、私たちが神様の愛の中に憩うことが、神を神たらしめること、神の栄光をあらわしていくことなのだ。