律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」からです。(ガラテヤ人への手紙 3章 11節)
(ガラテヤ人への手紙3章6〜11説より)
パウロは、「『アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた』とあるとおりです」(6)と、律法を守り行うことでは人間は神に近づくことはできず、信仰によって初めて人は神に義とみとめらることをアブラハムを例に出して説く。行いによって神に近づけるという考えこそが人間の傲慢な姿であるといえる。アブラハムは人間的な弱さのゆえに何度も失敗を重ねたが、神がその御名において哀れみ救ってくださることを信じ、それが神の前に義と認められたのである。
そして「すべての異邦人が、あなたによって祝福される」(8)とアブラハムに対して語られたことばのとおり、私たち日本人も信仰によってアブラハムの祝福を受け継ぐことが約束されている。
それはキリストの贖いのゆえである。ひとり子を犠牲にするという父なる神の苦しみを、息子イサクをささげた経験を持つアブラハムは身をもって知っていたであろう。そこまでして神は私たち人間を愛し、救いの道を備えてくださったのである。
アダムとエバから肉によって罪と死と滅びを受け継いだ人間だが、キリストを信じることによって永遠のいのちを受け継いでいくという神の約束。この祝福を感謝して受け取っていく者でありたい。