ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種の入らない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。(コリント人への手紙 第一 5:8)
パウロは、コリントの教会においての分裂・分派に続いて不品行の問題を挙げ、「あなたがたは誇り高ぶっています」(2)、あなたがたの高慢は、よくないことです(6)と、それらは高慢な心と深く結びついていると説く。
自分自身の真実の姿は、自分にはよく見えないことがある。「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です」(第二テモテ3:16)とあるように、私たちの「歪み」を聖書は矯正する。パウロは、「ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか」(6)と罪を放置する危険性を語る。身体の一部の歪みからいろいろな病気が発症するように、小さな罪を放置していると、そこからいろいろな問題が起こり、やがてたましいの滅びに至ってしまう。時に聖書には、時に耳障りであり、心に痛みも伴うこともあるが、私たちはこの聖書にしっかりと向き合い、みことばに心を照らされ、祈り、御霊なる神様に触れていただいて、正しいたましいへと変えてくださるように、祈っていく必要がある。
そしてパウロは、「新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです」(7)と、過越の祭りのときに食する種なしパンに教会を例える。私たちの罪はすべてキリストが贖ってくださったこと、キリストの血が私たちをきよめること、私たちはもはや罪の奴隷ではないことをいつも確認し宣言し、私たちの弱いところにキリストのみわざが現れることを、信じ、期待していく。私たちは古いままであってはならない。
贖われたものとしてふさわしく、きよめられた者としてふさわしく、この年を歩んでいこう。