わたしが「わたしはある」であることを信じなければ、あなたがたは、自分の罪の中で死ぬことになるからです。(ヨハネの福音書 8章 24節)
(ヨハネの福音書18章1-9節より)
イエス様は弟子たちとの最後の晩餐のひとときを過ごした後、弟子たちを連れてゲツセマネの園に行って祈るが、そこに裏切り者のイスカリオテのユダが手引をした大勢の兵士たちが武器をもってやって来た。
イエス様は進み出て、「だれを捜しているのか」と彼らに言われると、彼らは「ナザレ人イエスを」と答えた。イエス様は彼らに「わたしがそれだ」と言われた。ヨハネの福音書に度々登場するこの「わたしがそれだ」ということばは、モーセが神に名前を尋ねたときに、神が明かされた名と同じことば。ここからもイエス様は父なる神と一つであることがわかる。
「だれを捜しているのか」という問い掛けは、すべての人間に対して、真に捜し当てるべきお方、求めるべきお方は誰なのかということを確認させるためのことばともいえる。主を求める者に、主はその御名をあらわしてくださる。絶対者なる神を知り、その御名の前に畏れかしこみ、ひれ伏し、そのみわざのゆえに御名をあがめることが、私たち神に造られた人間の営みなのである。