その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」(ヨハネの福音書 1章29節)
(ヨハネの福音書 18章38節〜19:章8節より)
イエス様のうちに罪を見いだせないでいたピラトは、イエス様をむちでうち叩き、ローマ兵にあざけられるままにし、それから群衆の前に立たせて、こう言った。「見よ、この人だ。」ここまでボロボロにされた姿を見れば群衆の気持ちが落ち着くのではないかとピラトは期待したのだが、群衆は「十字架につけろ」と叫び続ける。イエス様のうちに神の存在を感じ取っていたピラトは、死刑判決を下すことになれば天からの災が降るのではと恐れていたのである。
私たちはこのお方を見る時に、自らを神の子羊として献げ、人類の贖いを成し遂げてくださったみわざを思う。そしてそのイエス様による救いを信じたならば、また「見よ、すべてが新しくなりました。」(コリント人への手紙第二 5章 17節)と、今度は自分が新しくなったことを見るのである。
いつもこのお方を見上げつつ、新しくされながら歩みたい。